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119話:フロレスタンとオイゼビウスによる大ソナタ~ベートーヴェンの記念のための捧げもの [ピアノ]

来月のリサイタル~シューマンのまなざし~で演奏致します作品の中から今日はシューマンの幻想曲をご紹介します。

シューマンの人生において1833年から5年間はこれほど活力に満ち溢れた展開の時期はありません。数々のピアノ曲を作曲、また次なる作品の骨格が生み出されました。
また週1回の刊行「音楽新報」の評論家として多忙な生活を送りました。この活動は規模と内容、編集の姿勢において音楽評論の歴史に残るものとされています。特にシューマンは国外通信員のシステムを充実させ、全世界の音楽情報を掲載する画期的な活動を始めました。

フリードリヒ《霧の海を眺めるさすらい人》1818年

フリードリヒ《霧の海を眺めるさすらい人》1818年



シューマン◇幻想曲作品17 1836~1838(28歳)


シューマンは、 自分自身に2つの異なる キャラクターが存在するとし、一つは内面的で瞑想にふける「オイゼビウス」。もう一つが 活発で英雄的な「フロレスタン」。 シューマンのピアノ曲にはそれらの名前が付けられた作品が多く見られます。

斬新なピアノ曲の一つであるこの幻想曲もそうでした。これはクララへの切迫した思いから作曲書法の進展を促すことになりました。
3つの楽章からなるソナタ風の幻想曲。第1楽章は1836年に「廃墟:ピアノのための幻想曲」の名のもとにスケッチされました。そのあとボンで計画された「ベートーヴェン記念碑」寄付金に参加するために二つの楽章を追加して完成させたものです。

当初は「フロレスタンとオイゼビウスによる大ソナタ~ベートーヴェンの記念のための捧げもの」として各楽章に「廃墟・トロフィー・棕櫚(しゅろ)」掲げて仕上げた後に、手直しして「幻想曲」と変更されました。

◇第1楽章 Horowitz
 
シューマンの想い~クララへの深い嘆き~を表現しています。
シュレーゲルの詩「夕映え」から~色とりどりの大地の夢のなかで/あらゆる音を貫いて響いてくる/かすかなひとつの音が/ひそやかに耳を傾ける人に~そして最後にはベートーヴェンの「遥かなる恋人に」第6曲冒頭の旋律「受けたまえこの歌を」が引用されています。

◇第2楽章 Horowitz

クララの父との確執によって紆余曲折したクララとの結婚が現実へと近づく勝利を表しています。
中庸なテンポでエネルギッシュに、と記されヴィルトーゾ的な技巧をきかせる華麗なロンド風。

◇第3楽章 Horowitz

穏やかに保って徹底してひそやかにと記され、安堵、静かな勝利をかみしめるような楽章です。


私自身この曲をプログラムでとりあげましたのはこの第1楽章に魅せられたからです。シューマンの新しい手法によるこの楽章、頻繁な転調表現による人生の波乱、苦しみを描いた狂詩曲にさえ聞こえるますがところどころにシューマンの優しさ、暖かさも見られ複雑な内面性を強く感じます。シューマンの言う「幻想の音」が表現できるよう努力していきます。

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☆youtube:kumikopianon 音楽の花束 私自身の演奏、現在101曲をのせています。

☆本間くみ子 第5回ピアノリサイタルシューマンのまなざし~ベートーベン:テンペスト/ブラームス:間奏曲作品117-2/シューマン:幻想曲 他


シューマン◇アラベスク ピアノ:本間くみ子





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118話:テンペストへの想い [ピアノ]

暑中お見舞い申し上げます。
連日の暑さ、皆様どうのりきっていらっしゃるでしょうか。
私は毎朝愛犬と一緒に近くの海の公園を散歩しています。堤防から水面を覗くと丁度その頃は朝ごはんの時間、小魚の群れが波紋を作り、時には飛び跳ね、またそれを目がけて鳥たちがどこからともなく舞い降りて来て水面にもぐります。またしばらくすると浮き上がり喉を真っ直ぐにのばしている様子に時々出くわします。また釣り人は魚の居場所を鳥たちから学び忍耐強く決定的瞬間を待っているのです。

*****

今日はベートーヴェン作曲ピアノソナタ第17番ニ短調作品31-2「テンペスト」をご紹介します。これはベートベン中期の作品、1802年に作曲されました。特に第3楽章は有名で単独で演奏される機会も多く色々な場面で親しみがあるのではないでしょうか。


ベートーベンは1792年に第二の故郷となるウィーンへ旅立ち6年目の1798年、ようやく音楽家として成功の道が開けた27歳の時、難聴という病に蝕まれていくことになるのです。

この1802年のベートーベンは意欲的で、もし*1「遺書」の存在を知らなければ、まさに意気揚々と創作意欲に溢れて見えたことでしょう。3曲のヴァイオリンソナタ、交響曲第2番、テンペスト、二つのピアノ変奏曲など次々と書かれました。

*1 ベートーヴェンが残したひとつに、「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれるものがあります。病によってこの世を去った直後、手紙は彼の自室の戸棚に仕掛けられた秘密の場所から複数の遺品とともに発見されたといいます。 宛先人の弟に送られることなく留め置かれた「ハイリゲンシュタットの遺書」が書かれたのは、1802年10月のこと。滞在先のハイリゲンシュタット(現在のウィーンの一部)で書かれたこの手紙には、深く激しい苦悩から自らの命を絶つことさえ考えていたベートーヴェンの切なる叫びが赤裸々に綴られています。 「(前略)耳が聞こえない悲しみを2倍にも味わわされながら自分が入っていきたい世界から押し戻されることがどんなに辛いものであったろうか。(中略)そのような経験を繰り返すうちに私は殆ど将来に対する希望を失ってしまい自ら命を絶とうとするばかりのこともあった。そのような死から私を引き止めたのはただ芸術である。私は自分が果たすべきだと感じている総てのことを成し遂げないうちにこの世を去ってゆくことはできないのだ。」

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ベートーヴェン像~ハイリゲンシュタット遺書の家から


さて、『テンペスト』という通称については、弟子のアントン・シンドラーがこの曲とピアノ・ソナタ第23番の解釈について尋ねたとき、ベートーヴェンが*2「シェイクスピアの『テンペスト』を読め」と言ったとされることに由来しています。

*2 ウイリアム・シェイクスピア William Shakespeare(1564-1616)英国の劇作家、詩人 テンペストとは「嵐」という意味です。シェイクスピア最後の作品と言われ、初演は1612年頃でした。ルネサンス時代のエンブレム(象徴)として船と嵐は大変多く見られました。船は何よりも人間自身の比喩であり、海原を航行する船は人生の航路に例えられてきたことは想像できますね。 ~専門家の言葉より ~ このロマンス劇の特徴である漂流・再生・和解・再会を巧みに配し、簡潔な語句による透明感のある世界を作り出している。究極の赦しと解放の境地に到達することの困難さを暗示する作品でもある

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ジェイムス・ハミルトン◇テンペスト


ベートーヴェン自身、この病とどう向き合い、戦うべきか、それともこの激しい海原にいっそうのこと身を投げてしまおうか、ただただひたすら来る日も来る日も考えていたのでしょう。印象的なことは遺書にもある"死から自分を引き留めたのはただ芸術である"。
現代の私たちもベートーヴェンと同じ高い意識を持つまでいかなくとも、自分に最も大切なことを見つけ、没頭する事がどれだけの幸せ、心を豊かにすることであるか、立ち止まって考えてみませんか。お金や物ではない精神的なものを探す、見つけることが将来を豊かにしていくことであると思わずにはいられません。

こちらのプログもお立ち寄りください。音楽と絵画の部屋Chapter 15.  シェイクスピア:喜劇〈テンペスト〉

ベートーベン:ピアノソナタ第17番ニ短調作品31-2「テンペスト」 Pianist: Ory Shihor


第1楽章Largo-Allegro 第2楽章Adagio
第3楽章Allegretto

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☆youtube:kumikopianon 音楽の花束 私自身の演奏、現在101曲をのせています。
☆本間くみ子 第5回ピアノリサイタルシューマンのまなざし

アルベニス◇グラナダ ピアノ:本間くみ子





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117話:ライラックはロマンスの象徴 [室内楽]

今回はラフマニノフのピアノトリオをご紹介します。

ラフマニノフと言うと、ピアノの作品は沢山演奏会でも取り上げられていますが、ピアノトリオはあまり日本では知られていないのではないでしょうか。
何といってもやはりピアノ曲ではコンチェルトやプレリュード「鐘」が有名ですね。
また、ラフマニノフの手は大変大きく、鍵盤のドからオクターブ上のソまで届いたとも言われています。編曲も多く残していますが、リストと同じように演奏は高い技術を求められ、表現は華やか、まさにヴィルトーゾです。

しかしそれに比べて彼が他の作曲家の作品の演奏を聞いて(youtube)非常にロマンティックな事に私は驚きました。特に最近聴いたシューベルト=リストのセレナーデは非常に静かで歌心があふれていると思いました。

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(1873-1943)はロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者です。

両親ともに裕福な貴族の家系の出身で、父方の祖父はジョン・フィールドに師事したこともあるアマチュアのピアニスト、父親は音楽の素養のある人物でしたが、受け継いだ領地を維持していくだけの経営の才能には欠けていたようで、セルゲイが生まれた頃には一家は破産寸前でした。

小さい頃のラフマニノフは、ノヴゴロド近郊のオネグは豊かな自然に恵まれた地域で、多感な子供時代を過ごしました。4歳の時、姉たちの家庭教師がセルゲイの音楽の才能に気がついたことがきっかけで、ペテルブルクからピアノ教師アンナ・オルナーツカヤが呼び寄せられレッスンを受けました。しかし、9歳の時ついに一家は破産し、ペテルブルクに移住、両親は離婚、父は家族の元を去っていったのです。いつも両親の言い争いを聞きながら寂しい少年時代を過ごしたことでしょう。

やがてセルゲイは音楽の才能を認められ、奨学金を得てペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学することができるのですが、不良学生で、12歳の時に全ての学科の試験で落第してしまいました。従兄に当たるピアニストのアレクサンドル・ジロティの力を借りてモスクワ音楽院に転入し、「ニコライ・ズヴェーレフ」の家に寄宿しながらピアノを学ぶことになりました。

学生だったラフマニノフ


門弟らに囲まれるズヴェーレフ。 左手から順に、サムエリソン、スクリャービン、マクシモフ、ラフマニノフ、チェルニャエフ、ケーネマン、プレスマン


ズヴェーレフは厳格な指導で知られるピアノ教師で、ラフマニノフにピアノ演奏の基礎を叩き込みました。ズヴェーレフ邸には多くの著名な音楽家が訪れ、特にチャイコフスキーに才能を認められ、目をかけられました。また音楽院ではアントン・アレンスキーに和声を、セルゲイ・タネーエフに対位法を学んだのです。同級にはアレクサンドル・スクリャービンがいました。

ズヴェーレフは弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味を持つことを禁じていましたが、作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフはやがて師と対立し、ズヴェーレフ邸を出ていきました。彼は父方の親戚に当たるサーチン家に身を寄せ、そこで未来の妻となるナターリヤと出会ったのです。

1891年に18歳でモスクワ音楽院ピアノ科にて大金メダルを得て卒業しました。金メダルは通例、首席卒業生に与えられますが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛びぬけて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合ったのです(スクリャービンは、小金メダル)。同年ピアノ協奏曲第1番を作曲しています。

さて、今日ご紹介する「悲しみの三重奏」または「ピアノトリオ第2番ニ短調」は、1893年11月6日にチャイコフスキーが亡くなり、追悼のために作曲しました。チャイコフスキーが創始したこの「亡き芸術家の追悼音楽」としてピアノ三重奏曲を作曲するという教えであり、ロシアの伝統でもあったのです。

ラフマニノフは2つのピアノ三重奏曲を作曲しました。一つはモスクワ音楽院在籍中の1892年に完成された、単一楽章によるト短調の作品。もう一つは卒業後の1893年に作曲されたニ短調による作品です。前者はラフマニノフの存命中に出版されることがなく、長らく忘れられていたが、現在では前者を「第1番」、後者を「第2番」というように呼び分けています。



第1楽章:モデラート Moderato - Allegro vivace
第2楽章:クヮジ・ヴァリアツィオーニ Quasi variazione. Andante
第3楽章:アレグロ・リゾルート Allegro risoluto - Moderato

Mikhail VAIMAN (1926-1977), violin - Mstislav ROSTROPOVICH (1927-2007), cello - Pavel SEREBRYAKOV (1909-1977), piano (Live rec: Leningrad, 1976)


私は以前、映画「ラフマニノフ・愛の調べ」を見て強烈に印象をもっているシーンの一つに彼がライラックの花束をかかえて家族のもとに戻るところです。音楽は「アンダンテ・カンタービレ」。やはり、彼の作曲した歌曲「ライラック」作品21-5が広く愛されてラフマニノフのロマンスを象徴する存在となり、ライラックの花は彼の存在と深く結びつけられるようになったのですね。恋人や熱狂的な彼のファンがライラックを届けるシーン、実際にあった事のようです。

ライラックの花言葉:初恋、謙遜

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ソフィー・アンダーソン◇ライラックの時





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☆もう一つのエッセイ 《音楽と絵画の部屋》   も重ねてご覧ください。

☆youtube:kumikopianon 音楽の花束 私自身の演奏、現在99曲をのせています。


コンサートライブアルバム(サロンで聴く室内楽の楽しみ)をリリース致しました。 モーツアルト:ピアノトリオ ト長調 KV564 R.シュトラウス:ロマンス ヘ長調 Op.75 ヴェニャフスキ:モスクワの思い出 Op.32 アレンスキ:ピアノトリオ No.1 Op.32 シベリウス:ロマンス(ピアノソロ) エルガー:愛の挨拶


ピアノトリオライブアルバム



ピアノトリオ コンサートのご案内 [室内楽]

ご来場お待ち申し上げます ご予約は会場:ソフィアザールサロンまで どうぞ宜しくお願い致します 2013年3月ピアノトリオ表紙.jpg 2013年3月ピアノトリオ裏面.jpg


下記の動画は現在97曲演奏をのせている中で視聴の多いベスト10をプレイリストにしてみました。
どうぞお聞きください




116話:ロシアの伝統~亡き芸術家の追悼音楽 [室内楽]

ロシアの作曲家と言えば私は真っ先に「チャイコフスキー」「ラフマニノフ」と思い浮かべます。
そして「亡き芸術家の追悼音楽」とくれば、やはりチャイコフスキーの「偉大なる芸術家の思い出」ではないでしょうか。しかし今日ご紹介する音楽家はチャイコフスキーに深いつながりのある別の作曲家です。

このアレンスキーという作曲家については恥ずかしながら私はあまり良く知りませんでした。しかし、調べてみますと、素晴らしい才能の持ち主でロシアではとても有名な作曲家なのです。

学生時代にはリムスキーコルサコフに目をかけてもらい、のちのモスクワ音楽院教授活動時代ではチャイコフスキーからの高く才能評価してもらっていました。アレンスキーの教え子の中にはラフマニノフやスクリャービンという著名な音楽家も含まれています。

テーブル中央がアレンスキー、右がラフマニノフ

テーブル中央がアレンスキー、右がラフマニノフ


Anton Stepanovich Arensky アントン・ステパノヴィチ・アレンスキー(1861-1905)はロシアの古都ノヴゴロドで生まれました。父は医者でしたが、教養高く、仁徳もあり、地元の名士、弦楽器やオルガンを演奏し音楽サークルでの交流もある大の音楽好き。母もピアニスト、そんな家庭に育ったので小さい頃から音楽教育は十分にうけることが出来、7歳でペテルブルグの音楽学校に入ります。

1879年(18歳)になると特別理論クラスに入学、そこでリムスキー=コルサコフに作曲理論とオーケストレーションを師事します。リムスキーはアレンスキーの才能豊かなことに目をかけ、信頼し、自分のオペラ《雪娘》のピアノ編曲を任せるといったことで、期待を寄せていたことがうかがえます。

1882年(20歳)になると音楽の指導を受ける傍ら、教授活動の場としてモスクワ音楽院へ移ります。
その時の恩師にピアノはニコライ・ルビンシュタイン、作曲法をチャイコフスキーに習います。
また、教師としてのアレンスキーは年ごとに人気が高まり、1889年には教授に昇任しました。弟子たちによる回想を見ると、「生まれ持った才能、直観的なひらめきによって生徒を感化し、間違いを瞬時に見抜き、生徒を正しい方へ導く天才的な芸術家」と書かれています。しかし、アレンスキーの人物像として移り気で短気な性格もある、ということからすべての学生とうまくいっていたわけではなかったようです。弟子のゴリデンウェイは「アレンスキーには悪いところもありました。才能のない生徒には我慢がならず、生徒の課題の出来が悪いと、かなり辛辣に虐めるのです」と率直に述べています。

アレンスキーにとっても12年間のモスクワ滞在は非常に重要なものでした。作品の多くはこの時期に作られ、最良のものが多かったと言われています。
1887年(26歳)の頃精神錯乱に陥り、重い鬱病を発症します。快復はしますが、それ以降不安定なことが生涯多かったようです。

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青いショールをまとったロシア娘◇Ivan Kramskoy 1837-1887



アレンスキー◇ピアノトリオ 第1番 ニ短調 作品32


作曲されたのはモスクワ音楽院を辞職した頃、1894年(33歳)です。チャイコフスキーの創始した「亡き芸術家の追悼音楽」としてピアノトリオを作曲するというロシアの伝統に沿った作品です。
チャイコフスキーの「偉大なる芸術家の思い出に」はリコライ・ルビンシュタイン追悼のために作られたのと同様に、この作品はサンペテルブルグ音楽院でチェロを教えていたカルル・ダヴィドフの追悼のために作曲されました。初演は1895年にサンクトペテルブルクにて、ピアノは作曲者アレンスキー、ヴァイオリンはレオポルト・アウアー、チェロはアレクサンドル・ヴェルジビロヴィチ。

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カルル・ダヴィドフ


この曲を初めて聴いた時確かに、チャイコフスキーのそれを思い出す曲調でした。ピアノが短調の和声で静かに始まり、まず第一主題をVnが奏で(チャイコはVc)せつせつと歌い上げていきます。
やがてロシア民謡的なものは見え隠れはするものの、次第にロマン派、メンデルスゾーンやショパンが顔を出すような感覚を持ったのは私だけでしょうか。

演奏時間は約30分、4楽章の構成です。

第1楽章Allegro moderato
第2楽章Allegro molto
第3楽章Adajio
第4楽章Allegor non troppo

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Painter: Isaac Ilich Levitan






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☆サロンで聴くピアノトリオの楽しみアレンスキー:ピアノトリオ 他

☆サロンHPはこちら サロン全景

☆上記の演奏会のプログラムとして《音楽と絵画の部屋》 ヴェニャフスキー:モスクワの思い出   も重ねてご覧ください。

☆youtube:kumikopianon 音楽の花束 私自身の演奏をのせています。







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115話:シリーズ:ドイツリート その1 [声楽]

    謹賀新年

音楽エッセイを始めて2年を迎えました。お付き合い頂いている皆様本当にありがとうございます。

これからの流れとしては、今まで通り演奏会のプログラム作品が中心になりますが、また今年はドイツリートを少しでも多くご紹介できたらと考えております。どうぞ宜しくお願い致します。


1840年、シューマンは後に「歌の年」と名付けています。
クララとの結婚が難航する最中、驚くほどの歌曲が溢れ出ました。
最初は2月にシェイクスピアの「十二夜」からの詩に基づく<道化のお開きの歌>、ハイネの詩による<リーダークライス>、4月は<ミルテの花>、5月からはアイヒェンドルフの<リーダークライス>、下旬には<詩人の恋>、7月には<女の愛と生涯>、10月に<四つの二重唱>/<流浪の民>、などなど年内に124曲が作曲されました。
煩わしい事、悲しい事、それらをクララへの愛と希望のエネルギーにかえて創作活動に費やしていたのでしょうか。素晴らしい集中力と才能だと改めて敬服します。

シューマンとクララ



シューマンの座右の銘の中から一部ご紹介します ☆譜を見ただけで、音楽が分かるようにならなければいけない。 ☆ひく時は、誰が聴いていようと気にしないこと ☆いつも名人に聞かせるような気持ちで弾くように。


その他の座右の銘についてはこちらのエッセイ をご覧ください。「献呈」ピアノ編がお聴きになれます。


シューマン◇「女の愛と一生」


アーダルベルト・シャミッソーの詩に基づく歌曲集です。1840年7月7日、ヴィーク(クララの父)が裁判から退却した報せに、シューマンは「万歳!勝利!」と日記に書き、四日後にこの歌曲集に着手しました。詩の内容は普通の女性の一生を描いた連作で、それが新鮮とされて出版後に人気を博しました。

この歌曲集は、実際最後の詩(女性が孫を登場させる)を省いて全8曲で構成。音楽を劇的に対比させながら物語性を際立たせる一方、曲集全体には穏やかで、繊細な和声をおくことによって女性らしいつつましさ、明るさが表現されています。これは「子供の情景」にも言えることではないでしょうか。

シューマン:藤本一子著より


それまでの歌曲集においてツィクルスの構築法を探求してきたシューマンは、今回も詩の内容に即して二つのグループとコーダで構成している。 第1曲《あのかたにお会いしたときから》心惹かれる男性にめぐにあった不思議な感情を、ためらいがちの伴奏リズムとつぶやくような歌唱法で表し、第2曲《誰よりも素晴らしいあのかた》で心の躍動を歌い上げ、第4曲《わたしの指輪よ》内的な喜び、第5曲《手伝って、妹たち》最後の結婚行進曲で区切りを迎える。ここまでがフラット系の調。 続いて第6曲《いとしい友よ、あなたはいぶかしそうにご覧になる》から第8曲までがシャープ系で落ち着きのあるグループを作る。この3曲が急展開するのだが、最後に冒頭の音楽が回想されて、穏やかな時空間へ誘う。

シューマンの歌曲「ミルテの花」よりはこちらのエッセイ「献呈」 をご覧ください。「献呈」ピアノ編がお聴きになれます。

 
期待と不安◇チャールズ・ウェスト・コープ(1811~1890)イギリス

期待と不安◇チャールズ・ウェスト・コープ(1811~1890)イギリス



第1曲あの人にあってから 彼に会ってからというもの、わたしは盲になってしまったよう。 どこに目を向けても、彼が見えてしまう。 まるで白昼夢のように,彼の姿がわたしの前に漂っていて、 深い暗闇からその姿だけが 明るく浮かび上がってくる。 わたしの周りはすべて 光りも色も無くなり、 妹たちの遊びにも もう加わる事も無い。 むしろ小さい部屋にこもって 人知れず泣いていたい。 彼に会ってからというもの、わたしは盲になってしまったよう


第2曲誰にもまさるきみ 彼は、誰よりも素晴らしい人、何と優しく、何と善良なんだろう! 優しい唇、澄んだ瞳、明るい心とくじけぬ勇気 大空の深い青の中で、明るく輝いている星たちのように、 彼もわたしの心の大空で 明るく輝いて、気高くまた遥かにある 歩んで、あなたの軌道を歩んで ただあなたの輝きを眺めているだけでいい。 慎ましくあなたの輝きを眺めているだけでいい 幸せであろうと、悲しかろうと! わたしのひそかな祈りを聞かないで、あなたの幸福だけに捧げられた祈りを わたしのような卑しい女をあなたが知る事は無い、輝く天空の星よ! 誰よりも優れた女性だけが あなたに選ばれる幸福を受けるべき そしたらわたしはその気高い女性を祝福します 何度でも祝福します その時わたしは喜び、また涙を流すでしょう 幸せ、その時わたしは幸せなの この心が張り裂けるというのなら、 張り裂けて、ああ心よ、それくらいの事が何だというの?



シューマン◇子供の情景~ピアノ:本間くみ子






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*こちらのエッセイもどうぞお立ち寄りください音楽と絵画の部屋


サロンで聴くピアノトリオの楽しみアレンスキー:ピアノトリオ 他



114話:流麗なロマンチィズム [弦楽器]

リヒャルト・シュトラウス


リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス(Richard Georg Strauss, 1864- 1949)はドイツの後期ロマン派を代表する作曲家です。交響詩とオペラの作曲で知られ、また、指揮者としても活躍しました。

私のシュトラウスの印象は裕福な家庭に生まれ、素晴らしい教育を受け、音楽の才能に恵まれ、作曲、指揮だけでなく、器楽演奏特にヴァイオリンについては大家に近いものを持っていた・・まさに語学と絵画にも卓越していたメンデルスゾーンを連想してしまいます。


さて、父はホルン奏者で、シュトラウスは幼少から徹底的な音楽指導をうけます。後に父のことを回想して次のように言っています~父は先ず第一にモーツアルトを、次いでハイドン、ベートーヴェンを高く評価していた。その他はシューベルト、ヴェーバー、メンデルスゾーン、シュポーアであった~

1880年あたりまでは、シュトラウスの作品は父親の教育に忠実で、古典派・ロマン派の巨匠たち、例えばモーツアルト、シューマンやメンデルスゾーン風のかなり保守的で流麗さが特徴でした。やはりモーツァルトを崇敬しており、「ジュピター交響曲は私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。終曲のフーガを聞いたとき、私は天国にいる思いがした」と語ったといわれています。そして父親の考えを受け継いでいたので、リストやヴァーグナーなどの新ロマン派には背を向けていました。

しかし、その後からシュトラウスが新しい音楽に興味を持つことになりますが、きっかけとなったのは、優れたヴァイオリン奏者で、ワーグナーの姪の1人と結婚したアレクサンダー・リッターと出会ったときからです。リッターの影響により、革新的音楽に真剣に向き合うようになりました。
また、20世紀の代表的な作曲家シェーンベルクとは特に10年間ほど大変密接な関係でいました。

1912年シャエフ指揮~バラの騎士~

1912年シャエフ指揮~バラの騎士~


R.シュトラウスの作曲活動は3期に分けられています。今日の作品は第1期(1880~87)
1883年、19歳の作曲です。
背景として、1882年「トリスタンとイゾルデ」を聞いてからヴァーグナーに傾いていきます。1983年、ベルリンへ行った時、美術のメンツェルなどから影響を受け、芸術の新しい動きへの目を開き始めていきます。1984年ハンスビューローと出会い、彼から認められ、ブラームスの熱烈な信奉者にもなりました。そうして標題音楽と絶対音楽、革新と保守の間をさまよい、この頃、ブラームス風であるがヴァーグナーの影響も強い作品を書いています。ロマンスと同じ年に書かれた「チェロとピアノのためのソナタOp.6」(1882-83年)。

こうして、マイニンゲン時代(1885年-86年)にヴァーグナー派に転向し始めました。



リヒャルト・シュトラウス◇ロマンスヘ長調作品75



この曲はもともとはチェロとオーケストラのための曲で、1883年にチェリスト、ハヌシュ・ヴィーハンのために書かれましたが、献呈は作曲家の叔父でミュンヘンの首席検察官アントン(リッター・フォン・クネツィンガー)になされました。初演はシュトラウス自身のピアノで演奏されましたが、その後作品の存在は忘れられ 1980年にようやく再発見され、今日に至ります。典型的なロマンスの形式で書かれており中央に対照的な部分が置かれています。


ロマンスMarilies Guschlbauer



下記のピアノトリオコンサートでも、この曲を演奏致します。

室内楽コンサートサロンで聴くピアノトリオの楽しみ




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*こちらのエッセイもどうぞお立ち寄りください音楽と絵画の部屋



ピアノコンサートライブアルバム「名曲の旅」2012.11月リリースしました

コンサートライブアルバム~名曲の旅


甘い思い出:メンデルスゾーン / ルーマニア民俗舞曲:バルトーク / アラベスク:シューマン / レントよりも遅く:ドビュッシー / はかなき人生:ファリャ / コルドバ:アルベニス / ロマンス:シベリウス / ロンドニ長調:モーツアルト / 悲愴第2楽章:ベートーヴェン / エディットピアフを讃えて:プーランク / ワルツ第5番:ショパン / オリエンタル:グラナドス / トルコマーチ:モーツアルト



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113話:サルスエラ [弦楽器]

只今来月に控えた演奏会ピアノコンサート~名曲の旅~の準備をしております。そして丁度スペインの作曲家の作品も取り上げる予定なのでこちらにご紹介致します。


ファリャ◇スペイン舞曲より「はかなき人生」



ファリャ(1876-1946)はスペイン作曲家です。フェリーペ・ペドレル(1841-1922 スペイン国民学派の父と呼ばれた)に師事しましたが、師の影響によりスペイン民族音楽に傾倒していきます。とりわけアンダルシアのフラメンコに興味を持ちます。多くのサルスエラの作品を残し、中でも最も有名なものが今日ご紹介する歌劇「はかなき人生」(1905年作曲)です。

サルスエラ(Zarzuela)・・・お料理で言うならばスペイン風のブイヤベースだそうです。もともとは音楽用語から生まれた名前だとご存知でしたか。サルスエラとはスペインの抒情詩オペラ音楽のことを指します。スペイン人によるスペイン語のオペラなのです。

簡単なあらすじはヒロイン、サルー(ジプシー娘)がバコ(一般スペイン人)と恋仲になりますが、バコは結婚相手としてならカルメラ(同じ階級のスペイン人で金持ちの令嬢)を選ぶまでのお話。階級・民族間の悲恋がテーマです。また今日ご紹介する「はかなき人生」はこのサルスエラの劇中曲が抜粋され、クライスラーがヴァイオリンとピアノのために編曲したことからよりポピュラーになりました。

クールベ◇物思うジプシー女

クールベ◇物思うジプシー女


ジプシーと言いますと、自由気ままに生きている印象がありますが、現実のスペインでは差別があるようです。フラメンコが他の舞踏のように作った笑顔で踊るというものとは違い、喜びだけではなく、眉間にしわまでよせて辛さ、悲しさも情熱的に表現しようとすることにはこうした背景があるのでしょう。

  
スペイン舞曲への絵画


フラメンコと言えば皆さんが思い浮かべるものは、真っ赤なドレスの踊りて、ギターの伴奏、をはじめ、他にはカンテ(歌)・パルマ(手拍子)・パリージョ(カスタネットを持った踊りて)などでしょうか。

移民という過酷な生活が生んだ素晴らしい舞踏と音楽。スペインに限らず民族音楽はまさに「生きる証」そのものだと感じます。

はかなき人生:ヴァイオリン&ピアノJanine Jansen & ses Amis



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本間くみ子 ピアノコンサート~名曲の旅~ 11月10日(土)東京・駒込:ソフィアザールサロンにて ソフィアザールインフォメーションご予約・お問い合わせ

名曲の旅.jpg


尚、現在youtubeには92曲載せています アルベニス◇コルドバ ピアノ:本間くみ子





4thアルバム「Kinderszenen~子供の情景」2012.9月リリースしました

4thアルバム


メンデルスゾーン:歌の翼にのせて / シベリウス:ロマンス シューベルト=リスト:セレナーデ / シューマン=リスト:献呈 シューマン:アラベスク / 「子供の情景」(全曲) ショパン:ワルツ No.7 / ベートーヴェン:「うつろな心」による6つの変奏曲  ベートーヴェン:ソナタ「悲愴」第2楽章 / プーランク:エディット・ピアフを讃えて 




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112話:孤独な神童 [ピアノ]

今回もモーツアルトです。モーツアルトの子供時代は大半を演奏旅行に費やした事もありかなり普通の子供とは違った人間形成になったことでしょう。
同じ年頃の友達と外を駆けずり回って遊ぶ、という事が想像しかねる、のは私だけではないでしょう。

父親レオポルドの同僚(宮廷オーケストラ)に、シャハトナー(1721-95)というトランペット奏者がいました。五才上の姉ナンネルの質問に答えてシャハトナーが思い出をつづっているものがありましたのでご紹介します。

「令弟が音楽の勉強に夢中になり始めると、他のすべての仕事に対する嗜好はすべて死に絶えたも同然になってしまうほどで、さらに子供っぽい遊びや戯れも、もし彼にとって興味がある場合は、音楽の伴奏がつけられました。彼と私が、部屋から別の部屋へと、玩具を運ぶ時はいつでも手の空いているほうが、行進曲を歌ったり、ヴァイオリンを弾いたりしなければなりませんでした」

「彼が音楽を始める前の頃、ほんの少しでも面白い遊びがあると、彼はそのために飲食を忘れ、また他のことをすべて忘れてしまうほど感じやすいものでした」

モーツアルトは興味のないものに対しては我慢できず放り出し、一方熱中すると我を忘れる、両者が並はずれなものであったのですね。

曲をするモーツァルト  楽譜を書いているヴォルフガングの様子をのぞき込んでいるのは、父親のレオポルト。 そばにいるのはシャハトナー
作曲をするモーツァルト  楽譜を書いているヴォルフガングの様子をのぞき込んでいるのは、父親のレオポルト。 そばにいるのはシャハトナー
「お互いにしょっちゅう会ってばかりいたので、彼は私がものすごく好きになってしまい、一日に何度も、おじさんは僕が好き?とたずねるものでした。時々、まったくの冗談のつもりで、いや嫌いだよというと、彼はすぐにも目にきらりと涙を浮かべるものでした。それほど彼の心はやさしく、そして愛らしいものでした」 さて、みなさんはモーツアルトとお友達になりたいですか? 他にもエピソードご覧になりたい方はこちらのエッセイをご覧ください。98話:手抜き、減給の名曲
モーツアルト◇ロンドニ長調 K.485
1786年36歳、モーツアルト円熟期の頃の作品です。この頃はオペラ「フィガロの結婚」上演大成功に続き、翌年には「ドン・ジョバンニ」を作曲、上演、平行してピアノトリオ、他と精力的に作曲活動しています
望台からのウィーン◇ベルナルド・ベロット(1720-1780>
展望台からのウィーン◇ベルナルド・ベロット(1720-1780>
このピアノ曲「ロンド」は明確な展開部を持っていてロンド形式とソナタ形式の両方の特色を備えた作品です。 冒頭のテーマは曲の進行の中で何度も出てくるのですが、その都度転調し、色彩が変わります。また転調するに至るまでの和声の進行、伴奏形態の変化が実に巧みで私は演奏するたびに感動します。きっとモーツアルトにとっては意図も簡単に即興で(鼻歌まじりに)あっと言う間に演奏してしまった事でしょうね。
ピアノ ロンドK.485Horowitz
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*こちらのエッセイもどうぞお立ち寄りください音楽と絵画の部屋
私自身の演奏会については11月10日(土)ピアノコンサート~名曲の旅~も予定しています。今日ご紹介したモーツアルトのロンドも演奏する予定です。
下記はセカンドアルバムより(ピアノ:本間くみ子)モーツアルト◇幻想曲ニ短調、どうぞお聞きください。現在4thアルバムリリースまじかです 尚、現在youtubeには90曲載せています

111話:別名はドン・ジュアン [オペラ]

モーツアルト、ウィーン時代最後の作品からもう一つご紹介します。
歌劇「ドン・ジョバンニ」です。

歌劇「フィガロの結婚」が1786年12月、プラハ(チェコ)で上演され大好評を博したことより 翌年1月8日から1ヶ月程モーツアルトは劇場関係者よりプラハに招聘されました。1月27日はモーツアルトの31歳の誕生日であり、彼にとってこのプラハ滞在(招待)は最高の誕生プレゼントとなったのではないでしょうか。また、この時台本作者のダ・ポンテも同行していました。そして、プラハ滞在中のモーツアルトにプラハの 民族劇場(スタヴォフスケ劇場、英語ではエステート劇場)より新曲の委嘱がなされたのです。そしてこの新曲こそが「ドン・ジョヴァンニ」でした。勿論、台本は「フィガロの結婚」と同様ダ・ポンテが担当しました。

*ロレンツォ・ダ・ポンテ(Lorenzo Da Ponte, 1749- 1838)は、イタリアの詩人で台本作家。モーツァルトの3つのオペラの台本を書いたことで知られています

「ドン・ジョバンニ」は2幕からなくドラマ・ブッファです。

*歌劇「オペラ・セリア」=正歌劇、イタリア語からなり、1710ら1770年頃までヨーロッパで支配的、高貴かつシリアスな内容)「オペラ・ブッファ」=(18世紀前半にナポリで生まれ、イタリア語、市民的で、より身近な問題を取り扱うものでした)「ジングシュピール」=(ドイツ語による歌芝居や大衆演劇の一形式を指し、オペラ、またはオペレッタとも呼ばれます)この3つのジャンルが中心となっています

この歌劇は、ただのおもしろおかしい喜劇とは趣が異なり、悲喜こもごもおりまぜ人間性をついた場面を持つ名作です。劇中、数々の名歌を持つほか、序曲も独立して演奏される機会の多いことで有名です。

ドン・ジョバンニ

ドン・ジョバンニ


ただこの新曲「ドン・ジョヴァンニ」の準備は順調なものではなかったようです。特に1787年5月28日にモーツアルトの 父レオポルドがザルツブルグで 亡くなった(享年67歳)影響は大きいものでした。そのことものあり、序曲の作曲が完成したのは、初演(1787年10月29日、 スタヴォフスケ劇場)の間際であったとのことです。

*一般に数ある序曲の中でも最上のものとみなされている。彼が初演前夜のしかも稽古がすでに終わった後でペンをとっただけだった。その晩は11時ごろ自室にこもると妻に自分がうっかり寝込まないようにと、途方もない冒険話をしてもらう、などやっとのことで翌朝の7時までに書き終えた。また楽員たちは練習しないで演奏しなければならなかった。ある人々は、この序曲中には、モーツアルトが睡魔に襲われたに違いないと思われる部分や、彼がはっと目を覚まして書いたと思われる部分をはっきり認めることが出来ると主張している。(モーツアルト:スタンダール著)より

さて、筋書きは・・・17世紀、スペインのセビリアが舞台。女性を次々口説いては棄ててゆく、色男が、口説いた娘の父を決闘で殺してしまい、その父親の墓の石像の前で彼の幽霊に出会い、なんと自らの宴に招くという不適な行為をした結果、その石像が実際に現れ、ドン・ファンの手を取って地獄に引き摺り下ろす‥‥という内容。

19世紀・セビリア

19世紀・セビリア


余談ですが、このお芝居はとても人気があったようで、ヨーロッパ中で公演され、その後も何人もの人によって書き直されてもいます。
(参考までに)モリエール 喜劇 ドン・ジュアン 1665 / モーツァルト オペラ ドン・ジョバンニ 1787 / プーシキン 小説 石の客 1830 / リヒャルト・シュトラウス 交響詩 ドン・ファン 1889 / アポリネール 小説 若きドン・ジュアンの冒険 1911

他に呼び方ですが、スペイン語ではドン・ファンといい、フランスでは、ドン・ジュアン、イタリア語では、ドン・ジョバンニ などです。

ドン・ジュアンというタイトルから私の大好きな画家の作品から大変興味深い一枚を見つけましたので一緒にご紹介します。

詩人ジョージ・ゴードン・バイロン長編詩として残した作品に、ドン・ジュアン(ドン・ジョバンニ)を主題としたものがあります。スペイン、セビーリャの若き色男ドン・ジュアンが放蕩三昧で土地を追い出され、外国へと向かうために船に乗りますが、その船が難破してしまいます。さらに漂流の末に食糧も底を尽き、食物として搭乗者の犠牲となる物を決めるためのくじ引きをおこなっている場面なのだそうです。ドラクロワはこのロマン派主義のバイロンに強く傾倒を示していました。

ドラクロワ◇ドン・ジュアンの難破(ドン・ジュアンの難船)1840

ドラクロワ◇ドン・ジュアンの難破(ドン・ジュアンの難船)1840


モーツアルト◇ドンジョバンニ Don Giovanni K.527 
序曲


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*こちらのエッセイもどうぞお立ち寄りください音楽と絵画の部屋



私自身の演奏会については11月10日(土)ピアノコンサート~名曲の旅~も予定しています。

下記は最新動画です。シューマン◇アラベスク、どうぞお聞きください。 尚、現在youtubeには88曲載せています




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