116話:ロシアの伝統~亡き芸術家の追悼音楽 [室内楽]
ロシアの作曲家と言えば私は真っ先に「チャイコフスキー」「ラフマニノフ」と思い浮かべます。
そして「亡き芸術家の追悼音楽」とくれば、やはりチャイコフスキーの「偉大なる芸術家の思い出」ではないでしょうか。しかし今日ご紹介する音楽家はチャイコフスキーに深いつながりのある別の作曲家です。
このアレンスキーという作曲家については恥ずかしながら私はあまり良く知りませんでした。しかし、調べてみますと、素晴らしい才能の持ち主でロシアではとても有名な作曲家なのです。
学生時代にはリムスキーコルサコフに目をかけてもらい、のちのモスクワ音楽院教授活動時代ではチャイコフスキーからの高く才能評価してもらっていました。アレンスキーの教え子の中にはラフマニノフやスクリャービンという著名な音楽家も含まれています。
テーブル中央がアレンスキー、右がラフマニノフ
Anton Stepanovich Arensky アントン・ステパノヴィチ・アレンスキー(1861-1905)はロシアの古都ノヴゴロドで生まれました。父は医者でしたが、教養高く、仁徳もあり、地元の名士、弦楽器やオルガンを演奏し音楽サークルでの交流もある大の音楽好き。母もピアニスト、そんな家庭に育ったので小さい頃から音楽教育は十分にうけることが出来、7歳でペテルブルグの音楽学校に入ります。
1879年(18歳)になると特別理論クラスに入学、そこでリムスキー=コルサコフに作曲理論とオーケストレーションを師事します。リムスキーはアレンスキーの才能豊かなことに目をかけ、信頼し、自分のオペラ《雪娘》のピアノ編曲を任せるといったことで、期待を寄せていたことがうかがえます。
1882年(20歳)になると音楽の指導を受ける傍ら、教授活動の場としてモスクワ音楽院へ移ります。
その時の恩師にピアノはニコライ・ルビンシュタイン、作曲法をチャイコフスキーに習います。
また、教師としてのアレンスキーは年ごとに人気が高まり、1889年には教授に昇任しました。弟子たちによる回想を見ると、「生まれ持った才能、直観的なひらめきによって生徒を感化し、間違いを瞬時に見抜き、生徒を正しい方へ導く天才的な芸術家」と書かれています。しかし、アレンスキーの人物像として移り気で短気な性格もある、ということからすべての学生とうまくいっていたわけではなかったようです。弟子のゴリデンウェイは「アレンスキーには悪いところもありました。才能のない生徒には我慢がならず、生徒の課題の出来が悪いと、かなり辛辣に虐めるのです」と率直に述べています。
アレンスキーにとっても12年間のモスクワ滞在は非常に重要なものでした。作品の多くはこの時期に作られ、最良のものが多かったと言われています。
1887年(26歳)の頃精神錯乱に陥り、重い鬱病を発症します。快復はしますが、それ以降不安定なことが生涯多かったようです。
青いショールをまとったロシア娘◇Ivan Kramskoy 1837-1887
アレンスキー◇ピアノトリオ 第1番 ニ短調 作品32
作曲されたのはモスクワ音楽院を辞職した頃、1894年(33歳)です。チャイコフスキーの創始した「亡き芸術家の追悼音楽」としてピアノトリオを作曲するというロシアの伝統に沿った作品です。
チャイコフスキーの「偉大なる芸術家の思い出に」はリコライ・ルビンシュタイン追悼のために作られたのと同様に、この作品はサンペテルブルグ音楽院でチェロを教えていたカルル・ダヴィドフの追悼のために作曲されました。初演は1895年にサンクトペテルブルクにて、ピアノは作曲者アレンスキー、ヴァイオリンはレオポルト・アウアー、チェロはアレクサンドル・ヴェルジビロヴィチ。
カルル・ダヴィドフ
この曲を初めて聴いた時確かに、チャイコフスキーのそれを思い出す曲調でした。ピアノが短調の和声で静かに始まり、まず第一主題をVnが奏で(チャイコはVc)せつせつと歌い上げていきます。
やがてロシア民謡的なものは見え隠れはするものの、次第にロマン派、メンデルスゾーンやショパンが顔を出すような感覚を持ったのは私だけでしょうか。
演奏時間は約30分、4楽章の構成です。
第1楽章Allegro moderato
第2楽章Allegro molto
第3楽章Adajio
第4楽章Allegor non troppo
Painter: Isaac Ilich Levitan
☆サロンで聴くピアノトリオの楽しみアレンスキー:ピアノトリオ 他
☆サロンHPはこちら サロン全景
☆上記の演奏会のプログラムとして《音楽と絵画の部屋》 ヴェニャフスキー:モスクワの思い出 も重ねてご覧ください。
☆youtube:kumikopianon 音楽の花束 私自身の演奏をのせています。
そして「亡き芸術家の追悼音楽」とくれば、やはりチャイコフスキーの「偉大なる芸術家の思い出」ではないでしょうか。しかし今日ご紹介する音楽家はチャイコフスキーに深いつながりのある別の作曲家です。
このアレンスキーという作曲家については恥ずかしながら私はあまり良く知りませんでした。しかし、調べてみますと、素晴らしい才能の持ち主でロシアではとても有名な作曲家なのです。
学生時代にはリムスキーコルサコフに目をかけてもらい、のちのモスクワ音楽院教授活動時代ではチャイコフスキーからの高く才能評価してもらっていました。アレンスキーの教え子の中にはラフマニノフやスクリャービンという著名な音楽家も含まれています。
Anton Stepanovich Arensky アントン・ステパノヴィチ・アレンスキー(1861-1905)はロシアの古都ノヴゴロドで生まれました。父は医者でしたが、教養高く、仁徳もあり、地元の名士、弦楽器やオルガンを演奏し音楽サークルでの交流もある大の音楽好き。母もピアニスト、そんな家庭に育ったので小さい頃から音楽教育は十分にうけることが出来、7歳でペテルブルグの音楽学校に入ります。
1879年(18歳)になると特別理論クラスに入学、そこでリムスキー=コルサコフに作曲理論とオーケストレーションを師事します。リムスキーはアレンスキーの才能豊かなことに目をかけ、信頼し、自分のオペラ《雪娘》のピアノ編曲を任せるといったことで、期待を寄せていたことがうかがえます。
1882年(20歳)になると音楽の指導を受ける傍ら、教授活動の場としてモスクワ音楽院へ移ります。
その時の恩師にピアノはニコライ・ルビンシュタイン、作曲法をチャイコフスキーに習います。
また、教師としてのアレンスキーは年ごとに人気が高まり、1889年には教授に昇任しました。弟子たちによる回想を見ると、「生まれ持った才能、直観的なひらめきによって生徒を感化し、間違いを瞬時に見抜き、生徒を正しい方へ導く天才的な芸術家」と書かれています。しかし、アレンスキーの人物像として移り気で短気な性格もある、ということからすべての学生とうまくいっていたわけではなかったようです。弟子のゴリデンウェイは「アレンスキーには悪いところもありました。才能のない生徒には我慢がならず、生徒の課題の出来が悪いと、かなり辛辣に虐めるのです」と率直に述べています。
アレンスキーにとっても12年間のモスクワ滞在は非常に重要なものでした。作品の多くはこの時期に作られ、最良のものが多かったと言われています。
1887年(26歳)の頃精神錯乱に陥り、重い鬱病を発症します。快復はしますが、それ以降不安定なことが生涯多かったようです。
作曲されたのはモスクワ音楽院を辞職した頃、1894年(33歳)です。チャイコフスキーの創始した「亡き芸術家の追悼音楽」としてピアノトリオを作曲するというロシアの伝統に沿った作品です。
チャイコフスキーの「偉大なる芸術家の思い出に」はリコライ・ルビンシュタイン追悼のために作られたのと同様に、この作品はサンペテルブルグ音楽院でチェロを教えていたカルル・ダヴィドフの追悼のために作曲されました。初演は1895年にサンクトペテルブルクにて、ピアノは作曲者アレンスキー、ヴァイオリンはレオポルト・アウアー、チェロはアレクサンドル・ヴェルジビロヴィチ。
この曲を初めて聴いた時確かに、チャイコフスキーのそれを思い出す曲調でした。ピアノが短調の和声で静かに始まり、まず第一主題をVnが奏で(チャイコはVc)せつせつと歌い上げていきます。
やがてロシア民謡的なものは見え隠れはするものの、次第にロマン派、メンデルスゾーンやショパンが顔を出すような感覚を持ったのは私だけでしょうか。
演奏時間は約30分、4楽章の構成です。
第1楽章Allegro moderato
第2楽章Allegro molto
第3楽章Adajio
第4楽章Allegor non troppo
☆サロンで聴くピアノトリオの楽しみアレンスキー:ピアノトリオ 他
☆サロンHPはこちら サロン全景
☆上記の演奏会のプログラムとして《音楽と絵画の部屋》 ヴェニャフスキー:モスクワの思い出 も重ねてご覧ください。
☆youtube:kumikopianon 音楽の花束 私自身の演奏をのせています。
とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!
by りれきしょ (2013-12-06 17:33)