119話:フロレスタンとオイゼビウスによる大ソナタ~ベートーヴェンの記念のための捧げもの [ピアノ]
シューマンの人生において1833年から5年間はこれほど活力に満ち溢れた展開の時期はありません。数々のピアノ曲を作曲、また次なる作品の骨格が生み出されました。
また週1回の刊行「音楽新報」の評論家として多忙な生活を送りました。この活動は規模と内容、編集の姿勢において音楽評論の歴史に残るものとされています。特にシューマンは国外通信員のシステムを充実させ、全世界の音楽情報を掲載する画期的な活動を始めました。
シューマンは、 自分自身に2つの異なる キャラクターが存在するとし、一つは内面的で瞑想にふける「オイゼビウス」。もう一つが 活発で英雄的な「フロレスタン」。 シューマンのピアノ曲にはそれらの名前が付けられた作品が多く見られます。
斬新なピアノ曲の一つであるこの幻想曲もそうでした。これはクララへの切迫した思いから作曲書法の進展を促すことになりました。
3つの楽章からなるソナタ風の幻想曲。第1楽章は1836年に「廃墟:ピアノのための幻想曲」の名のもとにスケッチされました。そのあとボンで計画された「ベートーヴェン記念碑」寄付金に参加するために二つの楽章を追加して完成させたものです。
当初は「フロレスタンとオイゼビウスによる大ソナタ~ベートーヴェンの記念のための捧げもの」として各楽章に「廃墟・トロフィー・棕櫚(しゅろ)」掲げて仕上げた後に、手直しして「幻想曲」と変更されました。
◇第1楽章 Horowitz
シューマンの想い~クララへの深い嘆き~を表現しています。
シュレーゲルの詩「夕映え」から~色とりどりの大地の夢のなかで/あらゆる音を貫いて響いてくる/かすかなひとつの音が/ひそやかに耳を傾ける人に~そして最後にはベートーヴェンの「遥かなる恋人に」第6曲冒頭の旋律「受けたまえこの歌を」が引用されています。
◇第2楽章 Horowitz
クララの父との確執によって紆余曲折したクララとの結婚が現実へと近づく勝利を表しています。
中庸なテンポでエネルギッシュに、と記されヴィルトーゾ的な技巧をきかせる華麗なロンド風。
◇第3楽章 Horowitz
穏やかに保って徹底してひそやかにと記され、安堵、静かな勝利をかみしめるような楽章です。
私自身この曲をプログラムでとりあげましたのはこの第1楽章に魅せられたからです。シューマンの新しい手法によるこの楽章、頻繁な転調表現による人生の波乱、苦しみを描いた狂詩曲にさえ聞こえるますがところどころにシューマンの優しさ、暖かさも見られ複雑な内面性を強く感じます。シューマンの言う「幻想の音」が表現できるよう努力していきます。
☆youtube:kumikopianon 音楽の花束 私自身の演奏、現在101曲をのせています。
☆本間くみ子 第5回ピアノリサイタルシューマンのまなざし~ベートーベン:テンペスト/ブラームス:間奏曲作品117-2/シューマン:幻想曲 他
118話:テンペストへの想い [ピアノ]
連日の暑さ、皆様どうのりきっていらっしゃるでしょうか。
私は毎朝愛犬と一緒に近くの海の公園を散歩しています。堤防から水面を覗くと丁度その頃は朝ごはんの時間、小魚の群れが波紋を作り、時には飛び跳ね、またそれを目がけて鳥たちがどこからともなく舞い降りて来て水面にもぐります。またしばらくすると浮き上がり喉を真っ直ぐにのばしている様子に時々出くわします。また釣り人は魚の居場所を鳥たちから学び忍耐強く決定的瞬間を待っているのです。
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今日はベートーヴェン作曲ピアノソナタ第17番ニ短調作品31-2「テンペスト」をご紹介します。これはベートベン中期の作品、1802年に作曲されました。特に第3楽章は有名で単独で演奏される機会も多く色々な場面で親しみがあるのではないでしょうか。
ベートーベンは1792年に第二の故郷となるウィーンへ旅立ち6年目の1798年、ようやく音楽家として成功の道が開けた27歳の時、難聴という病に蝕まれていくことになるのです。
この1802年のベートーベンは意欲的で、もし*1「遺書」の存在を知らなければ、まさに意気揚々と創作意欲に溢れて見えたことでしょう。3曲のヴァイオリンソナタ、交響曲第2番、テンペスト、二つのピアノ変奏曲など次々と書かれました。
*1 ベートーヴェンが残したひとつに、「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれるものがあります。病によってこの世を去った直後、手紙は彼の自室の戸棚に仕掛けられた秘密の場所から複数の遺品とともに発見されたといいます。 宛先人の弟に送られることなく留め置かれた「ハイリゲンシュタットの遺書」が書かれたのは、1802年10月のこと。滞在先のハイリゲンシュタット(現在のウィーンの一部)で書かれたこの手紙には、深く激しい苦悩から自らの命を絶つことさえ考えていたベートーヴェンの切なる叫びが赤裸々に綴られています。 「(前略)耳が聞こえない悲しみを2倍にも味わわされながら自分が入っていきたい世界から押し戻されることがどんなに辛いものであったろうか。(中略)そのような経験を繰り返すうちに私は殆ど将来に対する希望を失ってしまい自ら命を絶とうとするばかりのこともあった。そのような死から私を引き止めたのはただ芸術である。私は自分が果たすべきだと感じている総てのことを成し遂げないうちにこの世を去ってゆくことはできないのだ。」
さて、『テンペスト』という通称については、弟子のアントン・シンドラーがこの曲とピアノ・ソナタ第23番の解釈について尋ねたとき、ベートーヴェンが*2「シェイクスピアの『テンペスト』を読め」と言ったとされることに由来しています。
*2 ウイリアム・シェイクスピア William Shakespeare(1564-1616)英国の劇作家、詩人 テンペストとは「嵐」という意味です。シェイクスピア最後の作品と言われ、初演は1612年頃でした。ルネサンス時代のエンブレム(象徴)として船と嵐は大変多く見られました。船は何よりも人間自身の比喩であり、海原を航行する船は人生の航路に例えられてきたことは想像できますね。 ~専門家の言葉より ~ このロマンス劇の特徴である漂流・再生・和解・再会を巧みに配し、簡潔な語句による透明感のある世界を作り出している。究極の赦しと解放の境地に到達することの困難さを暗示する作品でもある
ベートーヴェン自身、この病とどう向き合い、戦うべきか、それともこの激しい海原にいっそうのこと身を投げてしまおうか、ただただひたすら来る日も来る日も考えていたのでしょう。印象的なことは遺書にもある"死から自分を引き留めたのはただ芸術である"。
現代の私たちもベートーヴェンと同じ高い意識を持つまでいかなくとも、自分に最も大切なことを見つけ、没頭する事がどれだけの幸せ、心を豊かにすることであるか、立ち止まって考えてみませんか。お金や物ではない精神的なものを探す、見つけることが将来を豊かにしていくことであると思わずにはいられません。
こちらのプログもお立ち寄りください。音楽と絵画の部屋Chapter 15. シェイクスピア:喜劇〈テンペスト〉
第1楽章Largo-Allegro 第2楽章Adagio
第3楽章Allegretto
☆youtube:kumikopianon 音楽の花束 私自身の演奏、現在101曲をのせています。
☆本間くみ子 第5回ピアノリサイタルシューマンのまなざし
112話:孤独な神童 [ピアノ]
同じ年頃の友達と外を駆けずり回って遊ぶ、という事が想像しかねる、のは私だけではないでしょう。
父親レオポルドの同僚(宮廷オーケストラ)に、シャハトナー(1721-95)というトランペット奏者がいました。五才上の姉ナンネルの質問に答えてシャハトナーが思い出をつづっているものがありましたのでご紹介します。
「令弟が音楽の勉強に夢中になり始めると、他のすべての仕事に対する嗜好はすべて死に絶えたも同然になってしまうほどで、さらに子供っぽい遊びや戯れも、もし彼にとって興味がある場合は、音楽の伴奏がつけられました。彼と私が、部屋から別の部屋へと、玩具を運ぶ時はいつでも手の空いているほうが、行進曲を歌ったり、ヴァイオリンを弾いたりしなければなりませんでした」
「彼が音楽を始める前の頃、ほんの少しでも面白い遊びがあると、彼はそのために飲食を忘れ、また他のことをすべて忘れてしまうほど感じやすいものでした」
モーツアルトは興味のないものに対しては我慢できず放り出し、一方熱中すると我を忘れる、両者が並はずれなものであったのですね。
108話:不滅の恋人に献呈したピアノ曲 [ピアノ]
今回はロマン派への誘い最終章、ベートーベン後期ピアノソナタからのご紹介です。
ベートーベン後期ソナタを呼ばれるのはこの30番をはじめ、31番・32番です。29番「ハンマークラヴィーア」もそうですが、30番~32番は1820年にまとめて作られました。聴覚が全く絶望的であったにもかかわらず、メートリンクでの心地よい夏を過ごしたあと、ミツバチのように楽想をかき集めて来てウィーンに帰ってから一気に書き上げられた、と記されています。
特にこの30番は不滅の恋人と言われているマクシミリアーネ・アントーニアへ捧げられているようです。しかし、当時アントーニアは結婚していたこと、主人であったマクシイリアーネ氏には世話になっていたことなどにより、ベートーベンは公にしなかったらしい事が後に分かりました。その証拠の一つにこの30番は直接夫人に献呈されておらず、娘のブレンターノに手渡されています。現代の私たちから想像するベートーベンとは違う繊細な一面が伺えますね。またそんな切ない恋というとクララとブラームスを連想していまいます。
1813年の自殺未遂から9年を経て、創作に落ち着きもあらわれています。この30番は第3楽章に重心がおかれ、変奏曲になっていますが、主題後半部分は歌曲「遥かなる恋人に寄せる」と同一のフレーズが用いられていることからも叶わぬ想いを曲に封じ込めたベートーベンの心情を察します。
次回は若きベートーベンのエピソードをご紹介します。
ピアノリサイタルのお知らせ [ピアノ]
多くの方のご来場お待ちしています。
会場:ソフィアザールサロン全景はこちら
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/happyendoh/top.files/soph.files/seclet.html
コンサート情報案内↓にも掲載しております。
http://tutti-classic.com/concert/125
お問い合わせはこちら k-honma@violet.plala.or.jp(本間)
107話:ルドンとシューマン~ロマン派への誘い [ピアノ]
まず、トロイメライについてはこちらスケッチ「愛らしい小品たち」のエッセイも重ねてご覧ください。
1 見知らぬ国 2 不思議な出来事 3 鬼ごっこ 4 おねだり
5 十分な幸せ 6 重大な出来事 7 トロイメライ 8 暖炉のそばで
9 木馬の騎士 10 むきになって 11 怖い風 12 眠りに入る子供 13 詩人は語る
シューマンは沢山の子供がいました。母親であるクララは大変素晴らしいピアニスト。子育ては一人でも大変なのに、こんなに大勢の子供たちの面倒をみながらどうやって自分の練習時間を捻出していたのでしょうか・・・古い映画ですが「愛の調べ」(クララとシューマンの物語)の場面にもクララの子育てぶりが出てきます。母としての優しさ、強さがとても魅力的に描かれています。
さて、この曲を聴いていると(弾いていると)そんな子供たちの日常の様子が本当に手に取るように分かります。シューマンの精密な描写力、表現力は並みならぬ才能だという事は言うまでもありません。
ところで、私はフランス画家「ルドン」がシューマン崇拝者だっということを偶然知りました。
「交響曲的画家」=今日の言葉でいうと抽象画家、また、再現画家、ルドンはそのどちらでもなく、「象徴的画家」であり、豊かな想像力で彼自身の音楽志向からその栄養を吸収していたに違いありません。
ルドンの描いた作品にはシューマンを題材にしたものが多く残されています。
また、ルドンの日記「私自身に」の手記にシューマンついていくつか書かれています。
ルドンが熱狂的なシューマンのファンだということの証明に音楽仲間からの手紙の出だしに「親愛なるシューマン」と書かれているのがいくつか残されています。
この他に、ルドンがシューマンを崇拝していた理由の一つにはシューマン自身がホフマン(ベルリン小説家・音楽家)に憑かれていたことが挙げられています。シューマンのあの有名なピアノ大作「クライスレリアーナ」はホフマン著「クライスラー楽長」をもとに作られています。
104話:ロマン派への誘い その2 [ピアノ]
<ピアノ> シューマン◇歌曲「ミルテの花」より~献呈~君に捧ぐ
シューマン(1810-1856)というと私は「文学と音楽の架け橋」というサブタイトルをつけたくなる作曲家です。確かに同年代であったリストの手記に次のようなことが書かれているのが残っています。
*シューマンは文学を音楽に近づけた。彼は実際にそのことを証明することが出来た最も重要な音楽家である*
リストは音楽家としてシューマンは良きライバルと同時に尊敬していたことでしょう。面白い事にYoutubeでこんな動画を見つけました。映画「愛の調べ」より
シューマンの作曲した歌曲はほとんどが妻クララへの思いを表現しています。そのクララと出会うことになったのは、シューマン18歳で入門したのが著名ピアノ教師ヴィーク氏、そしてクララはそのヴィーク氏の愛娘だったのです。クララは当時才能あるピアニストの金の卵として音楽に留まらず多岐に渡り教育を受けていました。
やがてシューマンは21歳で音楽の道へ進む決意を固め、ヴィーク家に下宿することになります。しかし、その頃になるとクララも各地で注目されるピアニストになり演奏旅行が増え、肝心の父親ヴィークがかかりきりになり、シューマンへの指導が疎かになっていきます。シューマンはフンメル氏に指導の転向考えたり、また再び文学への道へと心が揺れ動きます。そしてこの頃は (簡単に言ってしまうと二重人格) 「二つの自我」に悩みやがて自分自身認め、新しい芸術への戦いを自覚し行動を始める年にもなりました。
20代後半はクララへの気持ちがより一層高まり、同時にヴィークとは益々折り合いが悪くなっていきます。ヴィークがシューマンを気に入らなかった大きな理由にはクララとは比べ物にならないほどの無名のピアニストだったからのようです。シューマンの活動をことごとく父親は妨害しました。そんな苦しい状況の中でシューマンは数々のピアノ作品を残しています。(ピアノの年と呼ばれている)
さて、そんな執拗なまでの父親の嫌がらせ(裁判にまで発展)にも負けずクララと1840年30歳で結婚します。その時期は「歌の年」と呼ばれ、結婚を機に、その年だけでも100曲以上の歌曲ばかりを書き上げました。きっとシューマンが人生において最も幸福で心穏やかな充実した年だったことでしょう。
*クララの日記より~・・・これら全体がどれほどたやすく生まれ、幸せだったことか!たいていはピアノに向かってではなく立ったり、歩いたりして作曲した。今までと違って指先を通じて人々に伝えられるものではなく、もっと直接的でメロディに溢れている*
エル・グレコ(1451-1614)◇受胎告知
この絵を良くご覧下さい。大天使ガブリエルが手にしているユリの花、細い花瓶にさしてあるのがミルテの枝、いずれもマリアの処女性を表しています。
さて、今日ご紹介する「献呈」はその「歌の年」の代表作の一つでしょう。歌曲集「ミルテの花」全体がクララへの激しい思慕の情から生まれています。実際に結婚式の前夜にミルテの花を添えられてクラに作品が捧げられました。
ミルテの花言葉「愛」
グランヴィル◇ミルテ(マートル)1846年
結婚式にもよく使われ、「祝いの木」とも言われています。
最後に「献呈」~君に捧ぐの詩の一部をご紹介します。
君は僕の魂 君は僕の心 君は僕の喜び あぁ、そして君は僕の心の痛み
君は僕の生きる世界 君は僕の漂う天使 あぁ、そして君は我が墓
その中に僕は永遠に悲哀を捧げいれたのだ