室内楽 ブログトップ

117話:ライラックはロマンスの象徴 [室内楽]

今回はラフマニノフのピアノトリオをご紹介します。

ラフマニノフと言うと、ピアノの作品は沢山演奏会でも取り上げられていますが、ピアノトリオはあまり日本では知られていないのではないでしょうか。
何といってもやはりピアノ曲ではコンチェルトやプレリュード「鐘」が有名ですね。
また、ラフマニノフの手は大変大きく、鍵盤のドからオクターブ上のソまで届いたとも言われています。編曲も多く残していますが、リストと同じように演奏は高い技術を求められ、表現は華やか、まさにヴィルトーゾです。

しかしそれに比べて彼が他の作曲家の作品の演奏を聞いて(youtube)非常にロマンティックな事に私は驚きました。特に最近聴いたシューベルト=リストのセレナーデは非常に静かで歌心があふれていると思いました。

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(1873-1943)はロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者です。

両親ともに裕福な貴族の家系の出身で、父方の祖父はジョン・フィールドに師事したこともあるアマチュアのピアニスト、父親は音楽の素養のある人物でしたが、受け継いだ領地を維持していくだけの経営の才能には欠けていたようで、セルゲイが生まれた頃には一家は破産寸前でした。

小さい頃のラフマニノフは、ノヴゴロド近郊のオネグは豊かな自然に恵まれた地域で、多感な子供時代を過ごしました。4歳の時、姉たちの家庭教師がセルゲイの音楽の才能に気がついたことがきっかけで、ペテルブルクからピアノ教師アンナ・オルナーツカヤが呼び寄せられレッスンを受けました。しかし、9歳の時ついに一家は破産し、ペテルブルクに移住、両親は離婚、父は家族の元を去っていったのです。いつも両親の言い争いを聞きながら寂しい少年時代を過ごしたことでしょう。

やがてセルゲイは音楽の才能を認められ、奨学金を得てペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学することができるのですが、不良学生で、12歳の時に全ての学科の試験で落第してしまいました。従兄に当たるピアニストのアレクサンドル・ジロティの力を借りてモスクワ音楽院に転入し、「ニコライ・ズヴェーレフ」の家に寄宿しながらピアノを学ぶことになりました。

学生だったラフマニノフ


門弟らに囲まれるズヴェーレフ。 左手から順に、サムエリソン、スクリャービン、マクシモフ、ラフマニノフ、チェルニャエフ、ケーネマン、プレスマン


ズヴェーレフは厳格な指導で知られるピアノ教師で、ラフマニノフにピアノ演奏の基礎を叩き込みました。ズヴェーレフ邸には多くの著名な音楽家が訪れ、特にチャイコフスキーに才能を認められ、目をかけられました。また音楽院ではアントン・アレンスキーに和声を、セルゲイ・タネーエフに対位法を学んだのです。同級にはアレクサンドル・スクリャービンがいました。

ズヴェーレフは弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味を持つことを禁じていましたが、作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフはやがて師と対立し、ズヴェーレフ邸を出ていきました。彼は父方の親戚に当たるサーチン家に身を寄せ、そこで未来の妻となるナターリヤと出会ったのです。

1891年に18歳でモスクワ音楽院ピアノ科にて大金メダルを得て卒業しました。金メダルは通例、首席卒業生に与えられますが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛びぬけて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合ったのです(スクリャービンは、小金メダル)。同年ピアノ協奏曲第1番を作曲しています。

さて、今日ご紹介する「悲しみの三重奏」または「ピアノトリオ第2番ニ短調」は、1893年11月6日にチャイコフスキーが亡くなり、追悼のために作曲しました。チャイコフスキーが創始したこの「亡き芸術家の追悼音楽」としてピアノ三重奏曲を作曲するという教えであり、ロシアの伝統でもあったのです。

ラフマニノフは2つのピアノ三重奏曲を作曲しました。一つはモスクワ音楽院在籍中の1892年に完成された、単一楽章によるト短調の作品。もう一つは卒業後の1893年に作曲されたニ短調による作品です。前者はラフマニノフの存命中に出版されることがなく、長らく忘れられていたが、現在では前者を「第1番」、後者を「第2番」というように呼び分けています。



第1楽章:モデラート Moderato - Allegro vivace
第2楽章:クヮジ・ヴァリアツィオーニ Quasi variazione. Andante
第3楽章:アレグロ・リゾルート Allegro risoluto - Moderato

Mikhail VAIMAN (1926-1977), violin - Mstislav ROSTROPOVICH (1927-2007), cello - Pavel SEREBRYAKOV (1909-1977), piano (Live rec: Leningrad, 1976)


私は以前、映画「ラフマニノフ・愛の調べ」を見て強烈に印象をもっているシーンの一つに彼がライラックの花束をかかえて家族のもとに戻るところです。音楽は「アンダンテ・カンタービレ」。やはり、彼の作曲した歌曲「ライラック」作品21-5が広く愛されてラフマニノフのロマンスを象徴する存在となり、ライラックの花は彼の存在と深く結びつけられるようになったのですね。恋人や熱狂的な彼のファンがライラックを届けるシーン、実際にあった事のようです。

ライラックの花言葉:初恋、謙遜

>ソフィー・アンダーソン ライラックの時.jpg

ソフィー・アンダーソン◇ライラックの時





flower0232.jpg  flower0232.jpg  flower0232.jpg



☆もう一つのエッセイ 《音楽と絵画の部屋》   も重ねてご覧ください。

☆youtube:kumikopianon 音楽の花束 私自身の演奏、現在99曲をのせています。


コンサートライブアルバム(サロンで聴く室内楽の楽しみ)をリリース致しました。 モーツアルト:ピアノトリオ ト長調 KV564 R.シュトラウス:ロマンス ヘ長調 Op.75 ヴェニャフスキ:モスクワの思い出 Op.32 アレンスキ:ピアノトリオ No.1 Op.32 シベリウス:ロマンス(ピアノソロ) エルガー:愛の挨拶


ピアノトリオライブアルバム



ピアノトリオ コンサートのご案内 [室内楽]

ご来場お待ち申し上げます ご予約は会場:ソフィアザールサロンまで どうぞ宜しくお願い致します 2013年3月ピアノトリオ表紙.jpg 2013年3月ピアノトリオ裏面.jpg


下記の動画は現在97曲演奏をのせている中で視聴の多いベスト10をプレイリストにしてみました。
どうぞお聞きください




116話:ロシアの伝統~亡き芸術家の追悼音楽 [室内楽]

ロシアの作曲家と言えば私は真っ先に「チャイコフスキー」「ラフマニノフ」と思い浮かべます。
そして「亡き芸術家の追悼音楽」とくれば、やはりチャイコフスキーの「偉大なる芸術家の思い出」ではないでしょうか。しかし今日ご紹介する音楽家はチャイコフスキーに深いつながりのある別の作曲家です。

このアレンスキーという作曲家については恥ずかしながら私はあまり良く知りませんでした。しかし、調べてみますと、素晴らしい才能の持ち主でロシアではとても有名な作曲家なのです。

学生時代にはリムスキーコルサコフに目をかけてもらい、のちのモスクワ音楽院教授活動時代ではチャイコフスキーからの高く才能評価してもらっていました。アレンスキーの教え子の中にはラフマニノフやスクリャービンという著名な音楽家も含まれています。

テーブル中央がアレンスキー、右がラフマニノフ

テーブル中央がアレンスキー、右がラフマニノフ


Anton Stepanovich Arensky アントン・ステパノヴィチ・アレンスキー(1861-1905)はロシアの古都ノヴゴロドで生まれました。父は医者でしたが、教養高く、仁徳もあり、地元の名士、弦楽器やオルガンを演奏し音楽サークルでの交流もある大の音楽好き。母もピアニスト、そんな家庭に育ったので小さい頃から音楽教育は十分にうけることが出来、7歳でペテルブルグの音楽学校に入ります。

1879年(18歳)になると特別理論クラスに入学、そこでリムスキー=コルサコフに作曲理論とオーケストレーションを師事します。リムスキーはアレンスキーの才能豊かなことに目をかけ、信頼し、自分のオペラ《雪娘》のピアノ編曲を任せるといったことで、期待を寄せていたことがうかがえます。

1882年(20歳)になると音楽の指導を受ける傍ら、教授活動の場としてモスクワ音楽院へ移ります。
その時の恩師にピアノはニコライ・ルビンシュタイン、作曲法をチャイコフスキーに習います。
また、教師としてのアレンスキーは年ごとに人気が高まり、1889年には教授に昇任しました。弟子たちによる回想を見ると、「生まれ持った才能、直観的なひらめきによって生徒を感化し、間違いを瞬時に見抜き、生徒を正しい方へ導く天才的な芸術家」と書かれています。しかし、アレンスキーの人物像として移り気で短気な性格もある、ということからすべての学生とうまくいっていたわけではなかったようです。弟子のゴリデンウェイは「アレンスキーには悪いところもありました。才能のない生徒には我慢がならず、生徒の課題の出来が悪いと、かなり辛辣に虐めるのです」と率直に述べています。

アレンスキーにとっても12年間のモスクワ滞在は非常に重要なものでした。作品の多くはこの時期に作られ、最良のものが多かったと言われています。
1887年(26歳)の頃精神錯乱に陥り、重い鬱病を発症します。快復はしますが、それ以降不安定なことが生涯多かったようです。

b92880da954439a6c7f82da7b0ed5550253d8d65_71_2_9_2.jpg
青いショールをまとったロシア娘◇Ivan Kramskoy 1837-1887



アレンスキー◇ピアノトリオ 第1番 ニ短調 作品32


作曲されたのはモスクワ音楽院を辞職した頃、1894年(33歳)です。チャイコフスキーの創始した「亡き芸術家の追悼音楽」としてピアノトリオを作曲するというロシアの伝統に沿った作品です。
チャイコフスキーの「偉大なる芸術家の思い出に」はリコライ・ルビンシュタイン追悼のために作られたのと同様に、この作品はサンペテルブルグ音楽院でチェロを教えていたカルル・ダヴィドフの追悼のために作曲されました。初演は1895年にサンクトペテルブルクにて、ピアノは作曲者アレンスキー、ヴァイオリンはレオポルト・アウアー、チェロはアレクサンドル・ヴェルジビロヴィチ。

d31736bd1c2ebef0e380554e253b241d82cdf5e8_71_2_9_2.jpg
カルル・ダヴィドフ


この曲を初めて聴いた時確かに、チャイコフスキーのそれを思い出す曲調でした。ピアノが短調の和声で静かに始まり、まず第一主題をVnが奏で(チャイコはVc)せつせつと歌い上げていきます。
やがてロシア民謡的なものは見え隠れはするものの、次第にロマン派、メンデルスゾーンやショパンが顔を出すような感覚を持ったのは私だけでしょうか。

演奏時間は約30分、4楽章の構成です。

第1楽章Allegro moderato
第2楽章Allegro molto
第3楽章Adajio
第4楽章Allegor non troppo

c02364df3bde9a4cb507c05bba86001cfd94b04b_71_2_9_2.jpg
Painter: Isaac Ilich Levitan






flower0232.jpg  flower0232.jpg  flower0232.jpg



☆サロンで聴くピアノトリオの楽しみアレンスキー:ピアノトリオ 他

☆サロンHPはこちら サロン全景

☆上記の演奏会のプログラムとして《音楽と絵画の部屋》 ヴェニャフスキー:モスクワの思い出   も重ねてご覧ください。

☆youtube:kumikopianon 音楽の花束 私自身の演奏をのせています。







nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

110話:ウィーンでの素晴らしい創作意欲 [室内楽]

先日、ピアノトリオの演奏会を来年させて頂くお話を頂きました。プログラムの最初は軽快なモーツアルトから、という事になり今日はその作品からのご紹介です。

モーツアルトのピアノトリオは全6曲あり、どの曲も晩年数年間で作られています。ウィーン時代( 25歳~32歳)の最後の年でもあります。特に最後の3曲は1788年に、ブフベルク家(ウィーンの裕福で音楽好きの織物商)での小さな音楽会のために作られたのであろうとされています。

モーツアルト、ザルツブルグの住家

モーツアルト、ザルツブルグの住家


ウィーン時代を簡単に辿ると、1781年に一度ザルツブルグに戻るのですが、ザルツブルグ大司教コロレドと衝突し、解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意します。以降、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てました。

翌1782年、 父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚、このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が相次ぎます。

1785年には弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈(「ハイドン・セット」)、父親はハイドンから息子の才能について賛辞を受けます。また、ハイドンは2年後の1787年、プラハからのオペラ・ブッファの作曲依頼に対して、自分の代わりにモーツァルトを推薦しました。

ハイドンの言葉
「有力者が彼の才能を理解できるのなら、多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」

1786年5月1日、オペラ『フィガロの結婚』K.492をブルク劇場で初演し、翌年プラハで大ヒットしたためプラハを訪問します。 5月には父・レオポルトが死去。10月には、新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K.527を作曲し、プラハエステート劇場で初演。モーツァルト自らが指揮をとります

クリムト◇ベートーベンフリーズより~詩~

クリムト◇ブルグ劇場の天井画より


*クリムトについてはこちらにお立ち寄りください音楽と絵画の部屋 chapter 12


プラハで上演した『ドン・ジョヴァンニ』の報酬が同地から送金されるのが遅れていたこともあり、この頃からモーツァルトのキャッシュ・フローに狂いが生じ始めました。即ち、家計の出金に対する現金入金不足です。理由の一つには予約演奏会や貴族邸での個人演奏会の開催回数が激減し(オスマン帝国との開戦により主だった貴族が戦地に赴いたり、領地に戻ったりしたこともあり、モーツァルトの演奏会はほとんど開催されていない)これに伴う現金収入がら激減したのです。

6月には友人でフリーメイソンの会員であったミヒャエル・ブフベルクに現存する最初の借金依頼の手紙が書かれています。 *ミヒャエル・ブフベルク:1741年生まれ。ウィーンの裕福で音楽好きの織物商。

《最愛の同士よ!あなたの真の友情と兄弟愛にすがって、厚かましくもあなたの絶大なる御好意をお願いします。あなたには、まだ8ドゥカーテンを借りています。いまのところ、それをお返しすることができない状態にあるのに加えて、さらに、あなたを深く信頼するあまり、ほんの来週まで(その時にはカジノで私の演奏会が始まるので)、100フローリンを融通して助けてくださるよう、あえてお願いする次第です。その時までには、必ず予約金が手に入りますし、そうなればこの上なく熱い感謝の念をこめて136フローリンをきわめて容易にお返しできるでしょう・・(略)あなたのこの上なく献身的同士 W.A.モーツァルト》

ブフベルクに宛てたこの種借金依頼の手紙は1788年6月に3通、7月初めに1通、合計4通、1789年にも同じく4通、90年には9通もの手紙がかかれ、91年最後の年にも3通、総計20通もの手紙が書かれたのです。

モーツアルトモーツアルト


そんな中でもモーツアルトの創作意欲が衰えることがなく、6月から8月にかけて3大交響曲を書き上げました。


さて、このモーツアルトのピアノトリオ、弦の仲間がいたら形だけでも自分も弾けるかもしれないような簡素さでありますが、実は大変深い表情があり、そう簡単でもないと知ります。ピアノの部分についてみると、ソナタ等では低音域の表現にも神経を行き渡らせなければならない分、表現に限りがあるのに対して、ピアノトリオでは、足元はすべてチェロにゆだねて、ピアノとヴァイオリンが自由闊達、気ままに舞踏しているような、そんな感じを受けます。ピアノトリオの形はコミュニケーションの面白さが大きく拡がるアンサンブルの最も洗練された形ではないでしょうか。

モーツアルト◇Piano Trio in G Major , KV 564 
第1楽章

***** ***** ***** *****


私自身の演奏会については11月10日(土)ピアノコンサート~名曲の旅~も予定しています。

下記は最新動画です。ショパン◇ワルツ第7番作品64-2、どうぞお聞きください。 尚、現在youtubeには87曲載せています





109話:ブラームスと二人の女性 [室内楽]

ブラームスと言えば・・・内向的で人見知りの強い人柄を連想します。そして新ドイツ派(ヴァーグナー、リストなど)への反抗精神を寄せた人、ロマン派の作曲家で最も変奏曲に関心を寄せた人、この上なくシューベルトの歌曲に魅了された人、バッハ、ベートーベンを崇拝、研究した人、としても知られています。
20代のブラームス

20代のブラームス


ブラームスは20歳の時、親友ヨワヒムの紹介でシューマン家の扉をたたきます。彼の作曲したソナタ、スケルッツオに感動しその日から弟子として住み込むことになりました。

ロベルトの妻クララの日記より、「今日は素晴らしい人物、ハンブルク出身の作曲家ブラームスと出会う幸運を私たちにもたらした。彼もまた神からじかに遣わされた天才のうちのひとりなのだ。****ブラームスには差し引いたり、付け加えたりするようなものは何もないとローベルトは言っている」

ブラームスはいつしか同居しているうちにクララへ愛情を抱き、複雑な立場に苦しみながら数々の作品にその想いを託しています。これは有名なお話ですね。しかし今日ご紹介する二人の女性は限りなくクララに関係はありますが、別の女性なのです。

一人は25歳の頃、クララと子供たちとの夏の滞在地ゲッティンゲンの大学教授の娘アガーテ・ジーボルトです。クララに対する解決のつかない思慕とは別の、若くて聡明な女性の出現はブラームスの心を現実に引き戻しました。婚約まで辿りつくのですが、一方的にブラームスから破棄してしまいます。その背景には少年期に過ごした「女郎買い横丁」と呼ばれる決して良好と呼べない環境で目にした女性たちや、クララへの愛を含めて女性に対する屈折した感情が影響したと言われています。
  
アガーデ・シーボルト

アガーデ・シーボルト


もう一人の女性は失恋に終わりました。それはクララの三女ユーリエ・シューマンです。
このユーリエへの愛はシューマンへの崇敬とクララへの親愛が重なって特別な意味を持ち、密かなものでした。しかいクララは全くそれに気ずかず、ユーリエが結婚がきまってからはブラームスは深い衝撃を受けクララのもとに足を運ぶことも少なくなったのです。


チェロソナタ第1番作品38(1862-65)


ブラームス29歳の頃の作品です。ベートーベンを研究し、またバッハのフーガの技法を下地に作曲しました。

この曲を作る背景として、クララとベルリンで過ごしていましたが、1862年になると演奏家としての活発な活動に入りウィーンへと拠点を移します。友人に宛てた手紙に「僕はやってきた。いま、プラーター広場からほんの十歩のところに住んでいる。ベートーヴェンがいつも飲んだ場所で、ワインを飲むことができるんだ」

フェルディナント・ラウフベルガー◇プラーター公園で楽しむ庶民

フェルディナント・ラウフベルガー◇プラーター公園で楽しむ庶民


またウィーン滞在で大きな収穫となったのはシューベルトの作品との出会いであり、ウィーンの深い魅力を感得させるものだったのです。1863年知人に宛てた手紙に「私が当地でこのほか楽しく過ごせたのはシューベルトの未出版の作品のおかげです。彼の作品を仔細に見ていますとすっかり楽しい気分になってしまいます」

そして同年ウィーン・ジングアカデミー指揮者就任の職を得て、更に新しい人間関係と音楽の世界を開いていったのです。

ブラームスは生涯独身でした。クララへの想いは私たちの想像を超える深いものだったのでしょう。一方クララはシューマンを死ぬまで愛し、いいえ、永遠に、尊敬していました。女性の立場として思うことは母として、妻として、女性として、そして音楽家として凛とした強さとたおやかさを持って生き抜いたクララを尊敬してやみません。ブラームスの音楽はロマンティックと言うほど軽いものではなく、前に進みたい自分と引き留めるもう一人の自分がいて、光の先が見えない闇の中を旅しているように感じます。



第1楽章Mstislav Rostropovich, violoncello & Sviatoslav Richter, piano



***** ***** ***** *****

 

先月のリサイタルを終え、目下6月のチェロ&ピアノデュオコンサートに向けて準備を進めております。(今回ご紹介するチェロソナタを演奏致します)

尚、11月私のソロコンサートについてはピアノコンサート~名曲の旅~も予定しています。


下記の動画はリサイタル1週間前に某スタジオで録画しました。 ベートーベン後期ソナタ30番の3楽章、どうぞお聞きください。 尚、現在youtubeには88曲載せています



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

6月17日 演奏会のご案内です [室内楽]

チェロとピアノ デュオコンサートのお誘い

リサイタルを終え、一日休養のあとはこちらの演奏会に向けて気持ちを新たに送っております。
ご予約、お問い合わせはメッセージにてどうぞ宜しくお願い致します。
コンサートネット情報こちらにも掲載しております
http://tutti-classic.com/concert/2251

2012年貝原&くみこ チェロ完成.jpg



下記の動画はリサイタル1週間前に某スタジオで録画しました。
ベートーベン後期ソナタ30番の1楽章、どうぞお聞きください。
尚、現在youtubeには88曲載せています。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽
室内楽 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。