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youtube:kumikopianon シューマン◇子供の情景 [クラシック]

先日4月21日のリサイタルは終了致しました。
今回はネット検索で初めてお越し頂きた方も多く嬉しい驚きでした。
ご来場下さった皆様、本当にありがとうございました。

私はシューマンのピアノ曲がとても好きです。
ピアノの年と呼ばれた頃の作品を中心にこれからも勉強し続けていきます。
下記はリサイタル1週間前に某スタジオで録画したもです。
尚、youtubeには現在88曲載せています。よろしかったらお立ち寄り下さい。


106話 ロマン派への誘い~ゲーテとの出会い [クラシック]

今日はメンデルスゾーンの作品からのご紹介です。
まずメンデルスゾーン自身の才能、偉業についてはこちら永遠の三重奏団のエッセイも重ねてご覧ください。

メンデルスゾーン◇歌の翼にのせて


1836年(27歳)に作られ、歌曲集「6つの歌」作品34の第2曲です。
詩はハイネによるものです。トスティも同じ詩で作曲しているのですがあまり知られていません。
この作品もそうですが、メンデルスゾーンの育ちの良さが全体の作品に表れ、のびやかで明るく私たちの心を潤わせてくれます。またシューマンと親友でもありましたがきっと、繊細で気難しいシューマンの大切な良き相談相手になっていたのでしょね。

歌の翼に愛しき君をのせて ガンジスの野辺へと君を運ぼう  そこは白く輝く美しい場所 そこは赤い花が咲きほこる庭  静寂の中 月は輝き すいれんの花 愛する乙女を待つ  スミレは微笑み 星空を見上げ バラが耳元で囁く 芳しきおとぎ話 かしこくおとなしい小鹿 走り寄り 耳をそばだてる 遠く聞こえる聖なる川の流れ 僕等は椰子の木の元に降り立ち  愛と平穏を満喫し 幸福に満ちた夢を見よう
歌◇Barbara Bonney メンデルスゾーン◇歌の翼にのせて
ヴァイオリン◇J. Heifetz メンデルスゾーン◇歌の翼にのせて

メンデルスゾーンが描いた水彩画
メンデルスゾーンが描いた水彩画

ハイネを詩をご紹介しましたが、メンデルスゾーンは文豪ゲーテ(1749-1832)とも関わりがありました。エッカーマンの「ゲーテとの対話」の中に老ゲーテが少年メンデルスゾーンに夢中になりワイマールの自宅で何度となくピアノ演奏をさせる光景を描いた文章があります。最初の出会いは1821年11月、メンデルスゾーン12歳、ゲーテは72歳でした。
出会う前にすでにメンデルスゾーンはゲーテの詩を読んでいたとのこと。その後1822年、1825年、1830年と再訪をしています。

さて、最後にゲーテとメンデルスゾーンの共通の何かを探していたところ詩集「オシアン」にたどりつきました。「オシアン」とはスコットランドの伝説上の王、そして詩人、叙事詩です。違う時代ではあっても同じ作品を読み影響を受け、自分たちの作品に表現していく作り手を改めて尊敬します。
ゲーテやメンデルスゾーンだけでなく、ルソー、ワーグナー、シューベルト他、作家、画家、音楽家に強く影響を受けただけではく、一般の人々にケルト民族を知ってもらう好機にもなりました。

ローラの岸のオシアン◇フランソワ・ジェラール

ローラの岸のオシアン◇フランソワ・ジェラール


もう一つのエッセイ「音楽と絵画の部屋」 Chapter10 シューベルトの手紙よりこちらもご覧下さい

 

本間くみ子 第3回 ピアノリサイタル→ロマン派への誘い
追記) シューマン著「音楽と音楽家」の中にメンデルスゾーンの無言歌集について触れている文章をご紹介します。
夕闇のせまる頃、ピアノの前に座って、何とはなしに夢見心地で指を遊ばせているうちに、知らず知らず小声で旋律を口ずさむといったようなことは、誰しも覚えがあるだろう。 たまたま、その人が、自分で旋律に伴奏をつけられ、ことに彼がちょうどメンデルスゾーンのような人だったとすれば、たちまち美しい無言歌ができる。勿論、まず詩について作曲し、次に言葉を削って発表すれば、もっと楽にできよう。けれどもそれは本当の無言歌ではないし、いわば一種の詐欺である。 しかしそんなことがあったら、その機会に、果たして音楽がはっきりと感情を伝えられるかどうかの試験をしてみるのも面白いから、その削った詩の作者に頼んで、できた歌に新しい言葉をつけてもらうとよかろう。 新しい詩が古い詩と一致したら、それこそ音楽の表現の確実さの証明だ。さて、この歌集をみてみよう。歌はみな日光のように明るい顔をしている。最初の歌は(甘い思い出)印象の純粋さと美しさを備えている。フロレスタンは「こういう歌を歌った人はまだまだ長い生命が期待される。生前はもちろん、死んだ後もこの曲は長く残るだろう」・・・
シューマンの言わんとするところ、大変分かります。まさに文学を音楽に近づけた方の言葉です。 私もこの無言歌集は大好きです。気持ちが沈んだ時にも、最初のひとフレーズを聞いた瞬間にふわりと心を軽く誘ってくれるのです。よろしければその無言歌集の中から第1曲目「甘い思い出」をお聞きください。
メンデルスゾーン◇無言歌集「甘い思い出」 ピアノ 本間くみ子


105話:ロマン派への誘い その3 [クラシック]

 

シューベルト=リスト(編曲)◇歌曲「白鳥の歌」~セレナード

「歌曲の王」として知られているシューベルトですが、この歌集「白鳥の歌」の意味を皆さんはご存知でしょうか。

まず、シューベルト(1797-1828)が病床となった1828年11月12日に友人*ショーパーに宛てた手紙をご紹介します。またこれがシューベルトの書いた最後の手紙となりました。(*シューベルトが17歳で出会い生涯友人であり、シューベルティアーデの場を提供してくれた人達の一人でもある)

「親愛なるショーパー君、僕は病気で、この11日間何も食べたり飲んだりしていない。ただ安楽椅子とベッドの間をよろけながら行き来しているだけだ。何か食べようとしてもすぐに吐いてしまう。そこで申し訳ないのだが、この絶望の状態にあるぼくに、何か読物を貸して助けてはくれないだろうか・・・」

と、こうしている間にもシューベルトは最後の仕事、歌集「冬の旅」第二部の校正をしていたそう。死を目の前にしても、最後まで作品作りをしようとする気力、情熱に私はただただ尊敬の念を抱くばかりです。

 ハンス・ラルヴィン◇シューベルトを迎える友人達(中央が本人)

ハンス・ラルヴィン◇シューベルトを迎える友人達(中央が本人)

シューベルトは本格的に歌曲を書き始めたのは17歳、新しい学校に入学してからの時期です。また同じ年、冒頭でも触れましたが、友人ショーパーと出会い、良くも悪くも沢山の影響を受けていきます。

20歳になると、将来作曲家になるための重要人物との出会いが待っていました。それはヨハン・ミハエル・フォーグル(1768-1840)。彼は歌手で劇場よりもサロンでアリアや歌曲を歌うことで人気を博し、シューベルトの歌曲をずっと歌い続け広めてくれたのです。

  クールベ・ウィザー◇友人フォーグル

クールベ・ウィザー◇友人フォーグル

さて、今日ご紹介する「セレナード」ですが、1827年(30歳)交流があり歌手でもあったアンナ・フレーリヒからの依頼で、彼女の生徒(ゴスマー)の誕生日に合唱曲として、注文を受けていました。実際、この誕生会は思考を凝らしたもので、当日ゴスマーの住む家の庭にそっと三台の馬車で合唱団が入り、ピアノも気づかれないようにゴスマーの部屋の下におかれました。いざセレナードの演奏が始まるとゴスマーが驚いて窓から顔を出し、次の瞬間には大きな喜びを表したという事です。

尚、これにはおちがあり、シューベルトはこの誕生会に招待されていることをすっかり忘れていて、実際にこの曲を聴いたのは翌年。そしてアンナに「この曲がこんなに美しいとは本当に思ってもみなかった」と語ったと言われています。仕事で受けた作曲とはそんなに無頓着なものだったのでしょうか・・不思議な感じさえします。この曲は前奏を聴いただけで心がしみじみとしてきませんか

そのセレナードが含まれている歌集タイトル「白鳥の歌」についてですが、これはシューベルト自身がつけたかどうかは疑問だそう。死後、兄のフェルディナントが最後の3曲のソナタと共に13曲の最後の歌曲として提供し、彼自身の手で「白鳥の歌」と書き記しています。また、そもそもの意味は死ぬ間際に白鳥は歌うと言われ、その時に歌声が最も美しいという言い伝えから、ある人が最後に作った詩や歌曲、生前最後の演奏などをそう言われています。

  フェルメール◇窓辺で手紙を読む

フェルメール◇窓辺で手紙を読む

 

「セレナード」の詩を一部ご紹介します 

                                       詩:レルシュタープ

僕の歌は夜の中を抜け あなたへひっそりと こう訴えかける
静かな森の中へと 降りておいで 恋人よ、僕のもとへ
細い梢が月の光の中で ささやくように ざわめいている
裏切り者の意地悪い盗み聞きを怖がることは無い 優しい人よ
夕べに恋人の窓辺で恋をささやくセレナード(夜想曲)であり、ピアノ伴奏にもギター風の音型が使われています
歌◇Peter Schreier シューベルト◇セレナード
ピアノ◇Horowitz シューベルト=リスト◇セレナード
もう一つのエッセイ「音楽と絵画の部屋」 Chapter10 シューベルトの手紙よりこちらもご覧下さい
本間くみ子 第3回 ピアノリサイタル→ロマン派への誘い


103話:ロマン派への誘い その1 [クラシック]

皆様、お久しぶりです。
このところ演奏会と練習の日々で更新が中々できませんでした。
それにしても早いものですね。もう今年もまた1年を終えようとしています。
皆様はいかがお過ごしでいらっしゃいますか。

ベートーベン◇ピアノソナタ第8番ハ短調「悲愴」作品13


ベートーベン(1770-1827)と言うとすぐに思い浮かべる作品はこれからの時期にぴったりの交響曲第9番合唱つき「喜びの歌」を筆頭に、ヴァイオリンソナタ「スプリング」「クロイツェル」、小さな曲では「エリーゼのために」などなどそれぞれの人々の心の中に次々と作品が湧き出てきますね。

本日の作品は3大ピアノソナタ「月光」「熱情」と共に知られる「悲愴」のご紹介です。

この作品はベートーベン28歳(1798年)に書かれました。そして、ヴァイオリニスト、クロイツェルと知り合っている年でもあるのです。ベートーベンは22歳でウィーンに拠点を移し、成功の道を辿っているこの時期に病魔が忍び寄っていました。それは音楽家にとって致命的な「難聴」だったのです。

この曲はベートーベンにとって大変思いいれの大きい曲だったに違いありません。タイトル「大ソナタ悲愴(グランドソナタパテティーク)はベートーベン自身が名づけ、数少ない標題の例としても知られています。また、1楽章の「序奏」にもあるように、これまでのピアノ曲と異なり、人間的な感情表現が豊かになり、ロマン派のピアノ書法の原点とされています。

もしこの病に苦しまなかったら、これまでと同様サロン受けする作品を書き続けていたかもしれないだろう、苦悩に追い詰められそれを乗り越えようとしたことが彼を自己発見と斬新な技法を可能した、と考える専門家も多いのです。

ティソ(1836-1902)◇ゲッセマネの園での苦悩(キリストの苦悩)

ティソ(1836-1902)◇ゲッセマネの園での苦悩(キリストの苦悩)


では、ベートーベンがどれほど「難聴」について苦悩していたかを知る手がかりとなる友人に宛てた手紙の一部を書き出してみましょう。

出来ることなら僕は運命を相手に戦い、勝ちたい 僕は何回となく創造主を呪った。 考えても見てくれ、僕の一番大切な部分である聴覚がだいぶ弱まっているのだ。



さて、実際この曲を翌年1799年に発表すると数年間に渡り、賛否両論のセンセーションを巻き起こしました。モシュレス(1794-1870作曲家・ピアニスト)*下記写真*の伝えをご紹介しましょう。

モシュレス


彼が1804年プラハ音楽院の生徒だった時、学校はモーツアルト・クレメンティ・バッハ以外の作品を学ぶことは禁止したそう。特にベートーベンについてはすべての規則に違反してでたらめな音楽を書いていると。モシュレスはこっそりと図書館に通い、「悲愴」を見つけ、写譜し、そのスタイルの新しさに魅了されました。

写譜というと私はバッハを思い出します。10歳の頃、まだ早いから駄目だといわれたパッヘルベルのピアノ曲の譜面をこっそり持ち出し6ヶ月もの間写していたそう。またモーツアルトは譜面を見ることも禁じられていた教会カンタータの演奏について、耳でその演奏を記憶していまったとのこと。いつの世でも後世に名を残す大家は知恵と根気が人並み外れているのですね。凡才の私にはどんな知恵があり、どこまで根気が続くのか。これからも自分自身を楽しむゆとりを忘れず精進していこうと思います。

その他、若きベートーベンのエピソードを知りたい方はChaputer 7 社交界の寵児:ベートーベンこちらのエッセイをご覧下さいね


◇第一楽章:序奏、アレグロ・ディ・モルト・コン・ブリオ(荘厳に、きわめて輝かしく)
◇第二楽章:アダージョ・カンタービレ(きわめて遅く、歌うように)
◇第三楽章:ロンド・アレグロ(ロンド形式、軽快に)


演奏◇ピアノ:ケンプ ソナタ「悲愴」第2楽章





 kumikopiano インフォメーション 



3'rdアルバム「My Romance」を2011年8月にリリースしました。

My Romance:本間くみ子

言葉の無い3つのロマンス(フォーレ)/アヴェマリア(ピアソラ)/間奏曲作品118-2(ブラームス)/ロマンティックな情景(シベリウス)/甘い思い出・紡ぎ歌(メンデルスゾーン)/あなたが欲しい(サティ)/亡き皇女のためのパバーヌ(ラヴェル)/即興曲作品90-2(シューベルト)/愛の夢(リスト)/フランス組曲第5番より(バッハ)/精霊の踊り(グルック)/幻想即興曲(ショパン)/トロイメライ(シューマン) 計62分 定価¥1500にて発売中。
 


今日の1曲◇バッハ:フランス組曲第5番「アルマンド」 より ピアノ:本間くみ子

録音スタジオ:ソフィアザールサロン
yutubeに現在私自身の演奏を62曲アップしています


102話:素晴らしきかなシューベルティアーデ [クラシック]

シューベルト(1797-1828)ドイツ生まれ、「歌曲の王」と呼ばれていることは有名ですね。外見的には身長は低く、どちらかというと肥満体で、ひどい近眼。金銭的にいつも貧しく、友人たちの家を転々とする生活を送り、そのせいかどうか、何日もお風呂に入らなくても平気で、身なりは汚らしかった...と伝えられています。

そんな風貌のシューベルトですが、実際には彼を応援する友人が大勢いたのでした。彼の陽気で楽観的な性格とこの音楽の才能が皆から愛されていたのでしょう。神学校時代の同級生シュパウン、その友人でシューベルトを客人として自宅に招いたショーバー、詩人のマイアホーファー、歌手のフォーグル、そんな仲間がシューベルトを経済的に助け、作品の初演・出版に力を注ぎました。その彼らが催したシューベルトを囲む集会のことを「シューベルティアーデ」と呼ばれたのです。

 

シューベルティアーデ


シューベルト◇16のドイツ舞曲 作品33


さて、今日ご紹介する「舞曲」についてですが、このワルツのスタイルはシューベルト以前のハイドン、モーツアルト、ベートーベンの時代の頃から舞曲形式の作品は実用的な目的として、彼らも書いていました。それは彼らのおかれている社会的立場からそのように義務付けられる事すらありました。やがてシューベルトの時代なり、音楽は貴族階級と離れ中産階級へと流れ、新しい友人達の集まりに即興的な楽しみ方としても用いられるようになったのです。

今日の絵画のように、シューベルトはここで自らピアノを弾き、あるいは歌い(かなりの美声であったらしい)、舞踏会となると新作や即興の舞曲を演奏しては皆を喜ばせる人気者でした。実際、シューベルトはかなりの数の舞曲、実際に踊るために作り、集中的に作曲されたのは、このシューベルティアーデが頻繁に開かれた、1823年から24年にかけてです。


シューベルトは舞曲を即興し、気に入ったものを繰り返し弾き、書き留めて出版したそうです。そうして数多くの舞曲が生前のうちに世に出たのですが、この作品もまた、早くも翌年にヴィーンのカッピ社によって取りまとめられました。

またシューベルトは四六時中五線紙と向き合う生活で、その創作力が絶えることはありませんでした。レストランのメニューの裏に友人が五線を引いて、そこに曲を書きつづっていった、などというエピソードも残っています。

演奏◇ピアノ:ブレンデル 16のドイツ舞曲



16の舞曲とは言っても、1つ1つが大変短く(平均16小節)次々と曲調(テンポと調性)が変わります。それはまるでシューベルト自身が自分を囲んでいる友人達のキャラクターを即興で表現しているかのような、さもなければ踊る舞台が次々と変わるラウンドステージのような、そんなワクワクした感じが伝わります。演奏するのも聞くのもとても楽しい作品ではないでしょうか。



 

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3'rdアルバム「My Romance」を2011年8月にリリースしました。

My Romance:本間くみ子

言葉の無い3つのロマンス(フォーレ)/アヴェマリア(ピアソラ)/間奏曲作品118-2(ブラームス)/ロマンティックな情景(シベリウス)/甘い思い出・紡ぎ歌(メンデルスゾーン)/あなたが欲しい(サティ)/亡き皇女のためのパバーヌ(ラヴェル)/即興曲作品90-2(シューベルト)/愛の夢(リスト)/フランス組曲第5番より(バッハ)/精霊の踊り(グルック)/幻想即興曲(ショパン)/トロイメライ(シューマン) 計62分 定価¥1500にて発売中。
 
今日の1曲◇ショパン:幻想即興曲 より ピアノ:本間くみ子
録音スタジオ:ソフィアザールサロン yutubeに現在私自身の演奏を62曲アップしています 10月2日(日)午後2時半 ベートーベンチクルス室内楽演奏会チェロソナタ1番・3番/シューマン:幻想小曲集(チェロとピアノ)/シューマン:子供の情景より(ピアノソロ)他こちらもどうぞ宜しくお願い致します。

101話:「ドイツ・リート誕生日」となった作品 [クラシック]

98話、99話とベートーベンの作品が続きました。癇癪持ちと言われたベートーベン、交流のあった音楽家ハイドンとは喧嘩別れをしてしまったという話が残っていますが、弟子であったツェルニーをはじめ、シューベルトもほんの少しですがベートーベンとの関わりがあったようです。

シューベルト(1798-1828 ウィーン生)はベートーベンを大変尊敬していました。ベートーベンが27歳の時にシューベルトは生まれたのですから30歳近くもの年の差があります。同じウィーンで過ごしていたのだから互いにすれ違うことくらいあったのではないでしょうか。もしかしたら共通の知人がいたのかもしれません。
しかし、1822年にシューベルトはピアノ連弾曲作品10をベートーベンへの献辞を添えて出版した事を機にその作品を持ってベートーベンを訪ねましたが留守で会えなかったと伝えられています。

一方、1826年10月ベートーベンは病床についた頃、シューベルトの歌曲を知り彼は「この作曲家は本当の神聖な焔を持っている」と周囲の人に褒めたとのこと。しかしシューベルトは知る由はなかったのです。やがて死の数日前に見舞い客の中にシューベルトの姿もありました。
その次の年、31歳という若さでシューベルトも亡くなるのですが周囲の人たちには「自分が死んだときはベートーベンの近くに埋葬して欲しい」と頼んだそう。現在ウィーン中央墓地にはべートーベンとシューベルトの二つの墓が隣り合っています。


シューベルト◇糸を紡ぐグレートヒェン


シューベルト17歳の時、「1814年9月19日」西洋音楽の歴史のなかでも、とくに重要な日付けのひとつとされています。それはこのゲーテの詩による最初のリート「糸を紡ぐグレートヒェン」が生み出されているのです。

  
シェーファー◆ファウストとグレートヒェン

シェーファー◆ファウストとグレートヒェン


この歌曲はゲーテの長編戯曲「ファウスト」からの詩によるものです。また、ゲーテ14歳の時に思いを寄せた少女、グレートヒェンが根底にあり、戯曲「ファウスト」では1部にてファウストとグレートヒェンを巡る悲劇の中での彼女の思い、苦しみを歌っています。マルガレーテ(愛称グレートヒェン)は糸車で糸を紡ぎながら、恋人であるファウストの顔や仕草を思い出し、心の高ぶりを歌います。口づけを思い起こす時、陶酔して思わず踏み板を止めてしまう、われに返り、再び作業を続けようとする、しかし心ここにあらず、そんな心境を的確に表現しています。

これまでバロック期からの音楽の主要な役割はその心情など、一つの曲の中ではパターン化された静的な感情のみ、状況や心情が事細かに描写されるだけでした。しかしシューベルトは、ゲーテの意をうけ、むしろ「心情の変化」を描いたのです。例えばしだいに興奮してまたわれに返るという感情の変化です。この表現はそれまでの音楽、少なくとも歌曲の世界ではほとんど描かれたことがなかったのです。

アリ・シェフェール◇糸を紡ぐマルガレータ(愛称グレートヒェン)

アリ・シェフェール◇糸を紡ぐマルガレータ(愛称グレートヒェン)


 

~~詩の一部をご紹介します~~ わたしの安らぎは去り、私の心は重く沈んでいます。 私は二度と、もう二度と心の安らぎを得ることはありません。 あの方がいない所なんて、私には墓場も同然です。 世の中の全てが私には苛立たしいのです。 私のできの悪い頭はおかしくなってしまい、私のみじめな心は粉々になってしまいました。


演奏◇ソプラノ ルチアポップ 糸を紡ぐグレートヒェン






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今日の1曲◇シューベルト:即興曲作品90-2 より ピアノ:本間くみ子 録音スタジオ:ソフィアザールサロン yutubeに現在私自身の演奏を62曲アップしています 音楽と絵画の部屋 新エッセイです Chapter 6. テーマ「雨」

100話:難聴の苦悩、心の焦燥 [クラシック]

Beethoven◇Thoughtful

Beethoven◇Thoughtful


「僕は何回となく創造主を呪った。考えてもみてくれ、僕の一番大切な部分である聴覚がだいぶ弱まっているのだ」

ベートーベンが友人に宛てた手紙の一節です。

「6年このかた不治の病に侵され、つまらぬ医師たちによりいっそう病を重くされている」

これは1802年ごろ書かれたと推定される遺書のなかにありました。



ベートーヴェン◇ピアノソナタ第8番「悲愴」



ベートーベンの代表的なソナタに「月光」「熱情」「テンペスト」「ワルトシュタイン」「告別」などがありますが、この「悲愴」もまさにそれであり、ピアノ3大ソナタとしても挙げられています。

このソナタは1798年から翌年にかけて作られました。まさにベートーベンの難聴が始まった時期でもあります。またこの曲の「グランド・ソナタ・パテティーク」という標題は彼自身の命名する数少ない作品でもありました。そしてこれが、彼に苦難を与えた「運命」への作曲家としての答えでもあるのです。

友人ヴェーゲラーへの手紙の中の一節~「できることなら、僕は運命を相手に戦い、勝ちたい」



エルグレコ◇キリストの苦悩


エルグレコ◇キリストの苦悩

エルグレコ(1541-1614)はスペイン出身、イタリア(ヴェネツィア・ローマ等)やスペインで活躍したマニエリスム最後にして最大の画家です。


さて、この作品は発表と同時に爆発的な人気を呼び、アカデミックな作品を重視するヴィーンの教師たちは、この型破りな作品を見ることを禁じたほどだったそうです。当時生徒だったモシュレスは密かに楽譜を手に入れ写譜したことが伝えられているとのこと。

第1楽章、冒頭の叩きつけるような感情の爆発のフォルテ・ピアノの和音で始まる主題同機の3回にわたる繰り返しは鬱積した情熱の吐露であり、つづく苦悩とそれからの脱出への願望を願うかのような楽想の進行は、まことに絶妙であり荘厳である。 (園田高弘 著)


この名曲は不幸にして重い病のおかげで生まれた作品ですが、もし彼が難聴に見舞わなければその後も求められるままに、人気作曲家としてサロン受けのする作品を書き続けていたかもしれません。苦難に追い詰められ乗り越えようとしたことが、彼に新しい自己発見と斬新な技法を可能にさせたのでしょう。こうして今日の作品の背景を改めて考えてみると今現在、私達のおかれているこの状況に通じるものがあるのではないでしょうか。

参考書籍:ベートーベンの生涯(青木 やよひ著)



演奏◇ピアノKempff ケンプ 悲愴 第1楽章  kumikopiano インフォメーション 
今日の1曲◇ベートーベン:ソナタ「月光」2楽章 より ピアノ:本間くみ子 録音スタジオ:ソフィアザールサロン yutubeに現在私自身の演奏を60曲アップしています 音楽と絵画の部屋 新エッセイです Chapter 5. ラフマニノフ:神秘とロマンス

99話:タイトル「ほとんど協奏曲のように、相競って演奏されるヴァイオリン序奏つきのピアノソナタ」 [クラシック]

随分と長いタイトルですね。これは最初、ベートーヴェン自身のつけたタイトルだったそうです。

ベートーヴェン◇ヴァイオリンソナタ「クロイツェル」


ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)1770-1827 ドイツの作曲家、そして古典派音楽の集大成、かつロマン派音楽の先駆けとされています。
ベートーベンは粗野で気難しいというイメージがあります。その人格形成には10代の頃父親からのしうちで次第にゆがんでいってしまったのかもしれません。

幼少の頃、やはりモーツアルト同様ベートーヴェンの父親も大変熱心に音楽教育と小さなベートーヴェンを売り込みにいくのですが、次第に父親が思った以上に息子に才能があり、13歳にしてすでに父親を超えてしまいました。父親は宮廷楽長という高い地位にありながら平凡な才能である自分は息子ベートーベンに嫉妬を抱き、やがてお酒に溺れていったようです。
こうした複雑な親子関係、母親への思いやり、父親が生活費をすべてお酒につぎこむため幼い兄弟を養う努力、そんなベートーベンは私たちの知らない苦労、そして実はとても思いやりに満ち、責任感溢れる人物でもあったようです。

13歳のベートーヴェン


さて、ベートーベンがモーツアルトと出会った事について一つご紹介します。ベートーヴェンが17歳の頃、2週間ほどウィーン旅行をしていました。その旅の目的の一つに小さい頃からモーツアルトに憧れ、彼に教えを乞うためだったのです。モーツアルトの家に人に連れられてやって来たベートーヴェンはリクエストされた曲を弾きました。モーツアルトは前もって用意していた演奏と判断し、やや冷たい口調でほめました。そこでベートーヴェンはモーツアルトに即興演奏のテーマを自分に与えてくれるよう頼みます。尊敬する巨匠の前とあってベートーヴェンは熱を込めて演奏しました。するとどういうわけかモーツアルトは演奏が終わらないうちに隣室に消えてしまったのです。

ベートーベンはそのモーツアルトの行動に自分の演奏に興味を示してもらえなかったと思いがっかりして帰国します。しかし後に分かった事ですが、そのモーツアルトの行動は実は違っていて、彼の注目と関心が次第に高まり、ついに興奮して隣室にいた友人に伝えに行ったのでした。

「彼(ベートーヴェン)に注目したまえ。いつの日か彼は、語るに足るものを世界に与えるだろう」

今日お届けするヴァイオリンソナタ第9番イ長調作品47は1803年、33歳の頃の作品です。ヴァイオリニストのルドルフ・クロイツェルに捧げられたため、サブタイトルに「クロイツェル」として呼ばれています。

この曲もまたドラマがあったようです。実際、ベートーベンはクロイツェルに献呈するために書いたものではなく、黒人ヴァイオリニスト、ブリッジタワーに献呈したのです。同じ年にウィーンで彼と共演したベートーヴェンは感銘を受けこの曲を捧げました。しかし「狂気の黒人のためのソナタ」と親しみから茶化すような献辞がついていました。またある時、ブリッジタワーがある女性を侮辱したところ、その女性はベートーベンの友人であった事もあり次第に二人の関係は終わってしまったのです。そして改めて当時のヴィルトゥオーゾだったクロイツェルに改めて献呈したと言われています。

この作品に触発されたロシアの文豪「トルストイ」は小説「クロイツェル・ソナタ」を書いています。嫉妬心にかれれ妻を殺してしまった夫の悲劇が描かれています。
  
ニコラス・ゲー◇トルストイの肖像

ニコラス・ゲー◇トルストイの肖像


画家ニコライ・ゲー(1831-1894)は熱烈なトルストイ信望者で、当時56歳のトルストイに頼みこみ、モスクワの自宅で仕事に没頭している姿を描くことに成功したとのことです。


また作曲家「ヤナーチェク」はその小説に刺激を受けて、弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」残しました。

参考書籍:ベートーベンの生涯(青木 やよひ著)



演奏:Argerich & Kremer http://www.youtube.com/watch?v=zsWdfh95urc




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今日の1曲◇ベートーベン:ソナタ「月光」3楽章 より ピアノ:本間くみ子 録音スタジオ:ソフィアザールサロン yutubeに現在私自身の演奏を60曲アップしています 音楽と絵画の部屋 新エッセイです Chapter 5. ラフマニノフ:神秘とロマンス


98話:手抜き、減給の名曲 [クラシック]


クラシックファンになら大方予想のつく今日の作品ですね。先日、私はオーボエ奏者とちょうど本番にてこの曲で共演させて頂きました。やっぱり木管楽器から流れ出る暖かい響き、モーツアルトの「減り張り」と「ギャラント感」は私の心を瞬時に快活に、そして豊かにさせてくれます。

モーツアルト◇オーボエ協奏曲とフルート協奏曲

モーツアルトは(1756-1781)オーストリア、ザルツブルグ出身。フルネームはヴォルフガング・テオーフィルス・モーツアルトなのですが、実に輝かしい名前であるという事で少しご紹介します。

ヴォルフガング=ヨハネ・クリュソストムスはキリスト教の説教者、東方教会の総主教にして4大教会博士の一人である。そのヨハネの祝日に当たる1月27日に生を享けた。またヴォルフガングじたいも聖人の名。また、母マリーア・アンナの生地ザンクト・ギルゲンの湖ヴォルフガングゼーにもなぞらえているが、「狼とともに行く者」という意味でゲルマンの伝説に基づき、勇者の意を持つ
テオーフィルス=ラテン語系ではアマデウス、ドイツ語ではゴットリープ、いずれも「神を愛する者」または「神の愛でし子」の意味を持つ。

名は体を表すとはまさにモーツアルトのことですね。3才で楽才の芽生えを目の当たりにした父、レオポルトは4才でレッスンを始め、5才で小曲の創作まで試みるのでした。17歳にして、もう他の年長作曲家たちと互角、いえそれ以上のもので圧倒したのです。


神童8歳、ナンネル13歳、父レオポルト45歳


神童8歳、ナンネル13歳、父レオポルト45歳

1762年(6才)の時父親に連れられてロンドンにやってきます。するとバッハの11人目の子供ヨハン・クリスティアン・バッハ(27歳)と出会い演奏しあいながら年齢差を超え仲良くなるのです。クリスティアンはバッハ家の中で唯一オペラ作曲家であったようです。モーツアルトはクリスティアンから、華やかで魅力的な表現や響きを学び取りました。その後モーツアルトのピアノソナタのギャラントな作曲様式(バロックの複雑から古典派の明晰へむかう中に登場した音楽)はクリスティアンのそれに影響を受けているとのこと

ヴァトー1684~1721◇恋の音階

ヴァトー1684~1721◇恋の音階

ジャン・アントワーヌ・ヴァトゥは18世紀フランス画壇において最も重要な画家であり、ロココ様式(豪壮・華麗なバロックに続き優美・繊細なロココとして一時代続いた美術文化)の形成に大きな役割を果たした。

モーツアルトの生涯はわずか35年で閉じてしまい、今日の私たちからすれば短すぎると誰しもが思うでしょう。また、およそ800曲にも及ぶ作品の創作をわずか5才から始め、30年という時間の経過の中で書き上げていく速さとはいったいどんなものなのでしょうか。いくつかのシュミレーションも試みられたとの事。どれもが写譜者がどんなに早くモーツアルトの曲を書き写しても、彼の35年という物理的、計算的な時間の中には収まらないどころかはるかに超えてしまうとの事です。とうてい間に合わないという事なのです。しかも筆跡が流麗そのものだそう。

さて、今日ご紹介するこの作品は、ベルガモ出身でザルツブルクの宮廷のオーボエ奏者ジュゼッペ・フェルレンディスのために1777年4月1日から9月23日の間に作曲されました。実はエピソードとはこの後のことになるのですが、1778年ごろ、アマチュアフルート奏者、ドジャンからフルートの作品をいくつか頼まれるのです。モーツアルトは当時まだ楽器として音程が安定していなかったフルートをあまり好きではなかったのですが、お金に困っていたので引き受けてしまいます。しかし中々作曲が間に合わず、いくつかの作品のうちこの曲をオーボエ協奏曲のキーを一音あげてそのまま渡してしまったという訳です。それを知ったドジャンは初めに提示した報酬の半分しか払わなかったとの事です。

参考書籍 :「モーツアルトの廻廊」 海老沢敏著 春秋社
「モーツアルト」 スタンダール著 東京創元社

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今日の1曲◇モーツアルト:トルコマーチ ピアノ:本間くみ子 録音スタジオ:ソフィアザールサロン yutubeに現在私自身の演奏を60曲アップしています 冒頭でご紹介したオーボエ奏者のプログはこちら堀子孝英 演奏はこちら◇オーボエ:堀子孝英Shadow of your smile 音楽と絵画の部屋 新エッセイです Chapter 4. ドビュッシー、出世作となった管弦楽曲


97話:モーツアルト晩年の最高傑作 [クラシック]


前回のマタイ受難曲に関連したお話で、今日はモーツアルトの逸話を一つご紹介します。モーツアルトは(1756-1791)オーストリア、ザルツブルグ出身、大バッハの息子クリスチィアン・バッハに小さい頃出会ったエピソードもあるのですが、今日は別のお話しです。

13歳の時、父親とローマで復活祭前週を過ごします。聖水曜日夕刻ミスティナ礼拝堂にて「ミゼーレ」を聴きます。絵画、ミケランジェロの「最後の審判」に光が当たり、荘厳な響きで始まりました。当時、法王つきの楽団員にも「ミゼーレ」(グレゴリオ・アレグリ作曲)の写譜は禁じていました。モーツアルトは何としてもその曲を知りたく「それならば暗記しよう」と思い立つのです。宿に帰り記憶をたどり書き写します。金曜日にまた同じ演奏会にもぐりこみ、自分の写し譜の訂正箇所を見つけたということです。

モーツアルト◇オペラ「魔笛」より 


モーツアルト晩年の最高傑作「魔笛」、1791年、最後に完成させたオペラです。病気が進行し、制作中に何度も失神しながら書き続け、モーツアルト自身もオペラの中では特に心こよなく愛する作品でした。公演中は容態が悪化し、最初の9.10回ほどしか指揮をふれなかったとの事。いよいよ衰弱状態になると劇場へ脚を運ぶことも出来なくなり、ベットの脇に懐中時計を置き、夢の中でオーケストラを追っているようだったそうです。

「さあ、第一幕が終わった」  「いま、あのアリアを歌っている」

シャガール◇魔笛

シャガール◇魔笛


「魔笛」の台本は興行主・俳優・歌手であるエマヌエル・シカネーダーが自分の一座のために書きました。シカネーダーは当時ヨーロッパ各地を巡業していたたび一座のオーナーで、モーツアルトとはザルツブルグ時代の知り合い、またお互いにフリーメイソンの会員でもありました。シカネーダーは当時仕事がなく生活に困っていたモーツアルトに大作を依頼したのがそもそも傑作を生み出す始まりです。

フリーメイソンの集会◇最前列右端がモーツアルトらしい・・

フリーメイソンの集会◇最前列右端がモーツアルトらしい・・


魔笛の成功の大きな要素にはおそらくコンスタンツェへの想いが自分の作品のために必要な情熱的なアリアのモチーフとして見出されたことだと言われています。
ウィーンで初演された時壮大な人気を博し、その年だけでも上演20回を越えたと言われています。

ストーリー:魔法の笛に導かれた王子タミーノが数々の試練を乗り越え夜の女王の娘パミーナを結ばれるというロマンスと、夜の世界を支配する女王が昼の世界を支配するザラストロに倒されるという話の二重構造です。

パパゲーノの軽快なアリア「おいらは鳥刺しパパゲーノ」、夜の女王が雷鳴と共に登場し歌う超絶技巧のアリア「恐れるな若者よ」「復習の心は地獄のように」などはこのオペラの最高の聴きどころともいえるのではないでしょうか。

モーツアルトが愛した音楽家:ボッケリーニ・ヘンデル

シャガール◇パパゲーノ

シャガール◇パパゲーノ



参考書籍:「モーツアルトの廻廊」 海老沢敏著 春秋社
       「モーツアルト」 スタンダール著 東京創元社



パパゲーノ&パパゲーナの二重奏 Pa pa pa pa Cecilia Bartoli & Bryn Terfel


パ・パ・パ・パ・パ・パ・パ、パパゲーナ
パ・パ・パ・パ・パ・パ・パ、パパゲーノ

パ・パ・パ・パ・パ・パ、パパゲーナ!(パパゲーノ!)

きみってすっかりボクのもの?
あたしすっかりキミのもの
ぼくのおヨメになるのかい!?
あたしの心の鳩になれ!

なんてうれしいことだろか。 神さまたちのご配慮で、愛する二人が授かれば。かわいいちっちゃな赤ちゃんを

まずは、ちっちゃなパパゲーノ。
おつぎ、ちっちゃなパパゲーナ。
そのあとまたも、パパゲーノ。
つぎもまたまた、パパゲーナ。

想いがはちきれ、あふれそう。いっぱい、いっぱい、いっぱいの パパパ・パパパパ、パパゲーノ、パパパ・パパパパ、パパゲーナ、 愉快なぼくらに産まれれば。
ちっちゃな子どもに取り巻かれ、 おなじ喜び分かち合い、おなじ姿にほほえんで。幸せなんて これよりも、大きなものがあるだろか?



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今日の1曲◇モーツアルト:幻想曲二短調 ピアノ:本間くみ子 録音スタジオ:ソフィアザールサロン yutubeに現在私自身の演奏を56曲アップしています 音楽と絵画の部屋 新エッセイです Chapter 2. ドヴォルザーク「自問の時期」


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