110話:ウィーンでの素晴らしい創作意欲 [室内楽]

先日、ピアノトリオの演奏会を来年させて頂くお話を頂きました。プログラムの最初は軽快なモーツアルトから、という事になり今日はその作品からのご紹介です。

モーツアルトのピアノトリオは全6曲あり、どの曲も晩年数年間で作られています。ウィーン時代( 25歳~32歳)の最後の年でもあります。特に最後の3曲は1788年に、ブフベルク家(ウィーンの裕福で音楽好きの織物商)での小さな音楽会のために作られたのであろうとされています。

モーツアルト、ザルツブルグの住家

モーツアルト、ザルツブルグの住家


ウィーン時代を簡単に辿ると、1781年に一度ザルツブルグに戻るのですが、ザルツブルグ大司教コロレドと衝突し、解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意します。以降、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てました。

翌1782年、 父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚、このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が相次ぎます。

1785年には弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈(「ハイドン・セット」)、父親はハイドンから息子の才能について賛辞を受けます。また、ハイドンは2年後の1787年、プラハからのオペラ・ブッファの作曲依頼に対して、自分の代わりにモーツァルトを推薦しました。

ハイドンの言葉
「有力者が彼の才能を理解できるのなら、多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」

1786年5月1日、オペラ『フィガロの結婚』K.492をブルク劇場で初演し、翌年プラハで大ヒットしたためプラハを訪問します。 5月には父・レオポルトが死去。10月には、新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K.527を作曲し、プラハエステート劇場で初演。モーツァルト自らが指揮をとります

クリムト◇ベートーベンフリーズより~詩~

クリムト◇ブルグ劇場の天井画より


*クリムトについてはこちらにお立ち寄りください音楽と絵画の部屋 chapter 12


プラハで上演した『ドン・ジョヴァンニ』の報酬が同地から送金されるのが遅れていたこともあり、この頃からモーツァルトのキャッシュ・フローに狂いが生じ始めました。即ち、家計の出金に対する現金入金不足です。理由の一つには予約演奏会や貴族邸での個人演奏会の開催回数が激減し(オスマン帝国との開戦により主だった貴族が戦地に赴いたり、領地に戻ったりしたこともあり、モーツァルトの演奏会はほとんど開催されていない)これに伴う現金収入がら激減したのです。

6月には友人でフリーメイソンの会員であったミヒャエル・ブフベルクに現存する最初の借金依頼の手紙が書かれています。 *ミヒャエル・ブフベルク:1741年生まれ。ウィーンの裕福で音楽好きの織物商。

《最愛の同士よ!あなたの真の友情と兄弟愛にすがって、厚かましくもあなたの絶大なる御好意をお願いします。あなたには、まだ8ドゥカーテンを借りています。いまのところ、それをお返しすることができない状態にあるのに加えて、さらに、あなたを深く信頼するあまり、ほんの来週まで(その時にはカジノで私の演奏会が始まるので)、100フローリンを融通して助けてくださるよう、あえてお願いする次第です。その時までには、必ず予約金が手に入りますし、そうなればこの上なく熱い感謝の念をこめて136フローリンをきわめて容易にお返しできるでしょう・・(略)あなたのこの上なく献身的同士 W.A.モーツァルト》

ブフベルクに宛てたこの種借金依頼の手紙は1788年6月に3通、7月初めに1通、合計4通、1789年にも同じく4通、90年には9通もの手紙がかかれ、91年最後の年にも3通、総計20通もの手紙が書かれたのです。

モーツアルトモーツアルト


そんな中でもモーツアルトの創作意欲が衰えることがなく、6月から8月にかけて3大交響曲を書き上げました。


さて、このモーツアルトのピアノトリオ、弦の仲間がいたら形だけでも自分も弾けるかもしれないような簡素さでありますが、実は大変深い表情があり、そう簡単でもないと知ります。ピアノの部分についてみると、ソナタ等では低音域の表現にも神経を行き渡らせなければならない分、表現に限りがあるのに対して、ピアノトリオでは、足元はすべてチェロにゆだねて、ピアノとヴァイオリンが自由闊達、気ままに舞踏しているような、そんな感じを受けます。ピアノトリオの形はコミュニケーションの面白さが大きく拡がるアンサンブルの最も洗練された形ではないでしょうか。

モーツアルト◇Piano Trio in G Major , KV 564 
第1楽章

***** ***** ***** *****


私自身の演奏会については11月10日(土)ピアノコンサート~名曲の旅~も予定しています。

下記は最新動画です。ショパン◇ワルツ第7番作品64-2、どうぞお聞きください。 尚、現在youtubeには87曲載せています





109話:ブラームスと二人の女性 [室内楽]

ブラームスと言えば・・・内向的で人見知りの強い人柄を連想します。そして新ドイツ派(ヴァーグナー、リストなど)への反抗精神を寄せた人、ロマン派の作曲家で最も変奏曲に関心を寄せた人、この上なくシューベルトの歌曲に魅了された人、バッハ、ベートーベンを崇拝、研究した人、としても知られています。
20代のブラームス

20代のブラームス


ブラームスは20歳の時、親友ヨワヒムの紹介でシューマン家の扉をたたきます。彼の作曲したソナタ、スケルッツオに感動しその日から弟子として住み込むことになりました。

ロベルトの妻クララの日記より、「今日は素晴らしい人物、ハンブルク出身の作曲家ブラームスと出会う幸運を私たちにもたらした。彼もまた神からじかに遣わされた天才のうちのひとりなのだ。****ブラームスには差し引いたり、付け加えたりするようなものは何もないとローベルトは言っている」

ブラームスはいつしか同居しているうちにクララへ愛情を抱き、複雑な立場に苦しみながら数々の作品にその想いを託しています。これは有名なお話ですね。しかし今日ご紹介する二人の女性は限りなくクララに関係はありますが、別の女性なのです。

一人は25歳の頃、クララと子供たちとの夏の滞在地ゲッティンゲンの大学教授の娘アガーテ・ジーボルトです。クララに対する解決のつかない思慕とは別の、若くて聡明な女性の出現はブラームスの心を現実に引き戻しました。婚約まで辿りつくのですが、一方的にブラームスから破棄してしまいます。その背景には少年期に過ごした「女郎買い横丁」と呼ばれる決して良好と呼べない環境で目にした女性たちや、クララへの愛を含めて女性に対する屈折した感情が影響したと言われています。
  
アガーデ・シーボルト

アガーデ・シーボルト


もう一人の女性は失恋に終わりました。それはクララの三女ユーリエ・シューマンです。
このユーリエへの愛はシューマンへの崇敬とクララへの親愛が重なって特別な意味を持ち、密かなものでした。しかいクララは全くそれに気ずかず、ユーリエが結婚がきまってからはブラームスは深い衝撃を受けクララのもとに足を運ぶことも少なくなったのです。


チェロソナタ第1番作品38(1862-65)


ブラームス29歳の頃の作品です。ベートーベンを研究し、またバッハのフーガの技法を下地に作曲しました。

この曲を作る背景として、クララとベルリンで過ごしていましたが、1862年になると演奏家としての活発な活動に入りウィーンへと拠点を移します。友人に宛てた手紙に「僕はやってきた。いま、プラーター広場からほんの十歩のところに住んでいる。ベートーヴェンがいつも飲んだ場所で、ワインを飲むことができるんだ」

フェルディナント・ラウフベルガー◇プラーター公園で楽しむ庶民

フェルディナント・ラウフベルガー◇プラーター公園で楽しむ庶民


またウィーン滞在で大きな収穫となったのはシューベルトの作品との出会いであり、ウィーンの深い魅力を感得させるものだったのです。1863年知人に宛てた手紙に「私が当地でこのほか楽しく過ごせたのはシューベルトの未出版の作品のおかげです。彼の作品を仔細に見ていますとすっかり楽しい気分になってしまいます」

そして同年ウィーン・ジングアカデミー指揮者就任の職を得て、更に新しい人間関係と音楽の世界を開いていったのです。

ブラームスは生涯独身でした。クララへの想いは私たちの想像を超える深いものだったのでしょう。一方クララはシューマンを死ぬまで愛し、いいえ、永遠に、尊敬していました。女性の立場として思うことは母として、妻として、女性として、そして音楽家として凛とした強さとたおやかさを持って生き抜いたクララを尊敬してやみません。ブラームスの音楽はロマンティックと言うほど軽いものではなく、前に進みたい自分と引き留めるもう一人の自分がいて、光の先が見えない闇の中を旅しているように感じます。



第1楽章Mstislav Rostropovich, violoncello & Sviatoslav Richter, piano



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先月のリサイタルを終え、目下6月のチェロ&ピアノデュオコンサートに向けて準備を進めております。(今回ご紹介するチェロソナタを演奏致します)

尚、11月私のソロコンサートについてはピアノコンサート~名曲の旅~も予定しています。


下記の動画はリサイタル1週間前に某スタジオで録画しました。 ベートーベン後期ソナタ30番の3楽章、どうぞお聞きください。 尚、現在youtubeには88曲載せています



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6月17日 演奏会のご案内です [室内楽]

チェロとピアノ デュオコンサートのお誘い

リサイタルを終え、一日休養のあとはこちらの演奏会に向けて気持ちを新たに送っております。
ご予約、お問い合わせはメッセージにてどうぞ宜しくお願い致します。
コンサートネット情報こちらにも掲載しております
http://tutti-classic.com/concert/2251

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下記の動画はリサイタル1週間前に某スタジオで録画しました。
ベートーベン後期ソナタ30番の1楽章、どうぞお聞きください。
尚、現在youtubeには88曲載せています。


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youtube:kumikopianon シューマン◇子供の情景 [クラシック]

先日4月21日のリサイタルは終了致しました。
今回はネット検索で初めてお越し頂きた方も多く嬉しい驚きでした。
ご来場下さった皆様、本当にありがとうございました。

私はシューマンのピアノ曲がとても好きです。
ピアノの年と呼ばれた頃の作品を中心にこれからも勉強し続けていきます。
下記はリサイタル1週間前に某スタジオで録画したもです。
尚、youtubeには現在88曲載せています。よろしかったらお立ち寄り下さい。


108話:不滅の恋人に献呈したピアノ曲 [ピアノ]

ただ今第3回ピアノリサイタルに向けて日々準備をしております。
今回はロマン派への誘い最終章、ベートーベン後期ピアノソナタからのご紹介です。

  
クリムト◇ベートーベンフリーズより~詩~

クリムト◇ベートーベンフリーズより~詩~



ベートーベン◇ピアノソナタ第30番作品109


ベートーベン後期ソナタを呼ばれるのはこの30番をはじめ、31番・32番です。29番「ハンマークラヴィーア」もそうですが、30番~32番は1820年にまとめて作られました。聴覚が全く絶望的であったにもかかわらず、メートリンクでの心地よい夏を過ごしたあと、ミツバチのように楽想をかき集めて来てウィーンに帰ってから一気に書き上げられた、と記されています。

特にこの30番は不滅の恋人と言われているマクシミリアーネ・アントーニアへ捧げられているようです。しかし、当時アントーニアは結婚していたこと、主人であったマクシイリアーネ氏には世話になっていたことなどにより、ベートーベンは公にしなかったらしい事が後に分かりました。その証拠の一つにこの30番は直接夫人に献呈されておらず、娘のブレンターノに手渡されています。現代の私たちから想像するベートーベンとは違う繊細な一面が伺えますね。またそんな切ない恋というとクララとブラームスを連想していまいます。



アントニーア・ブレンターノ

アントニーア・ブレンターノ


1813年の自殺未遂から9年を経て、創作に落ち着きもあらわれています。この30番は第3楽章に重心がおかれ、変奏曲になっていますが、主題後半部分は歌曲「遥かなる恋人に寄せる」と同一のフレーズが用いられていることからも叶わぬ想いを曲に封じ込めたベートーベンの心情を察します。

次回は若きベートーベンのエピソードをご紹介します。

作曲家たち


第一楽章バレンボイム

第一楽章アラウ




 

♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪ インフォメーション ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪


リサイタル会場:ソフィアザールサロン全景はこちら http://www.sam.hi-ho.ne.jp/happyendoh/top.files/soph.files/seclet.html

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リサイタルについてはこちら 


ただ今youtubeに73曲のせています。どうぞお立ち寄りください http://www.youtube.com/user/kumikopianon/videos


ショパン◇ワルツ8番



ピアノリサイタルのお知らせ [ピアノ]

ベートーベン後期ソナタ30番は特に不滅の恋人(実際はその娘に)献呈され、思いの深い美しい楽曲です。

多くの方のご来場お待ちしています。

会場:ソフィアザールサロン全景はこちら
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/happyendoh/top.files/soph.files/seclet.html

コンサート情報案内↓にも掲載しております。
http://tutti-classic.com/concert/125

お問い合わせはこちら k-honma@violet.plala.or.jp(本間)

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107話:ルドンとシューマン~ロマン派への誘い [ピアノ]

私自身、ちょうど2ヶ月後に控えております第3回ピアノリサイタルにて、これからご紹介するシューマン「子供の情景」もプログラムに入れました。非常に好きな作品の一つでもあり、演奏できる事を今からとても楽しみにしております。

シューマン◇子供の情景


まず、トロイメライについてはこちらスケッチ「愛らしい小品たち」のエッセイも重ねてご覧ください。

子供の情景

1 見知らぬ国 2 不思議な出来事 3 鬼ごっこ 4 おねだり 
5 十分な幸せ 6 重大な出来事 7 トロイメライ 8 暖炉のそばで 
9 木馬の騎士 10 むきになって 11 怖い風 12 眠りに入る子供 13 詩人は語る

シューマンは沢山の子供がいました。母親であるクララは大変素晴らしいピアニスト。子育ては一人でも大変なのに、こんなに大勢の子供たちの面倒をみながらどうやって自分の練習時間を捻出していたのでしょうか・・・古い映画ですが「愛の調べ」(クララとシューマンの物語)の場面にもクララの子育てぶりが出てきます。母としての優しさ、強さがとても魅力的に描かれています。

さて、この曲を聴いていると(弾いていると)そんな子供たちの日常の様子が本当に手に取るように分かります。シューマンの精密な描写力、表現力は並みならぬ才能だという事は言うまでもありません。

ホロヴィッツの演奏子供の情景・全曲

アルゲリッチの演奏子供の情景・全曲



ところで、私はフランス画家「ルドン」がシューマン崇拝者だっということを偶然知りました。
「交響曲的画家」=今日の言葉でいうと抽象画家、また、再現画家、ルドンはそのどちらでもなく、「象徴的画家」であり、豊かな想像力で彼自身の音楽志向からその栄養を吸収していたに違いありません。
ルドンの描いた作品にはシューマンを題材にしたものが多く残されています。
また、ルドンの日記「私自身に」の手記にシューマンついていくつか書かれています。

ルドン(1840-1916)◇シューマン讃
ルドン(1840-1916)◇シューマン讃
肖像画とはひとつの人格、一人の人間の本質を捉えた像である。 肖像画の最悪のものは、人間の顔の中に人間がいることを示さない種類のものだ。 ルドン『私自身に』
ルドンはヴァイオリンを弾き、音楽家ショーソンとよくアンサンブルをしました。また、定期的にカルテットなど室内楽も演奏し、ベートーベンをはじめ、シューマンの曲を中心にとりあげていました。
ルドンが熱狂的なシューマンのファンだということの証明に音楽仲間からの手紙の出だしに「親愛なるシューマン」と書かれているのがいくつか残されています。
この他に、ルドンがシューマンを崇拝していた理由の一つにはシューマン自身がホフマン(ベルリン小説家・音楽家)に憑かれていたことが挙げられています。シューマンのあの有名なピアノ大作「クライスレリアーナ」はホフマン著「クライスラー楽長」をもとに作られています。

ルドン◇昼と夜

ルドン◇昼と夜

『夜』右パネルに描かれたシューマン、フォンフロワド修道院図書室

『夜』右パネルに描かれたシューマン、フォンフロワド修道院図書室


彼自身が高貴だった。その意味は、絶対に利己的でなく、自己を棄てた心の流露、強く充足した魂を持っていたということである。シューマンは、彼の果実を与えた。 林檎の樹が林檎を与えるように、自己本位の思いもなく、悔いもなく、彼の心臓と思想、彼の作品と彼の一生を、他人の苦しみを自分のものにする人々と同じように、与えた。 それこそ最高の恩寵であり、深い天才の性格のしるしである    ルドン『私自身に』から1915年の手記、池辺一郎訳、みすず書房




106話 ロマン派への誘い~ゲーテとの出会い [クラシック]

今日はメンデルスゾーンの作品からのご紹介です。
まずメンデルスゾーン自身の才能、偉業についてはこちら永遠の三重奏団のエッセイも重ねてご覧ください。

メンデルスゾーン◇歌の翼にのせて


1836年(27歳)に作られ、歌曲集「6つの歌」作品34の第2曲です。
詩はハイネによるものです。トスティも同じ詩で作曲しているのですがあまり知られていません。
この作品もそうですが、メンデルスゾーンの育ちの良さが全体の作品に表れ、のびやかで明るく私たちの心を潤わせてくれます。またシューマンと親友でもありましたがきっと、繊細で気難しいシューマンの大切な良き相談相手になっていたのでしょね。

歌の翼に愛しき君をのせて ガンジスの野辺へと君を運ぼう  そこは白く輝く美しい場所 そこは赤い花が咲きほこる庭  静寂の中 月は輝き すいれんの花 愛する乙女を待つ  スミレは微笑み 星空を見上げ バラが耳元で囁く 芳しきおとぎ話 かしこくおとなしい小鹿 走り寄り 耳をそばだてる 遠く聞こえる聖なる川の流れ 僕等は椰子の木の元に降り立ち  愛と平穏を満喫し 幸福に満ちた夢を見よう
歌◇Barbara Bonney メンデルスゾーン◇歌の翼にのせて
ヴァイオリン◇J. Heifetz メンデルスゾーン◇歌の翼にのせて

メンデルスゾーンが描いた水彩画
メンデルスゾーンが描いた水彩画

ハイネを詩をご紹介しましたが、メンデルスゾーンは文豪ゲーテ(1749-1832)とも関わりがありました。エッカーマンの「ゲーテとの対話」の中に老ゲーテが少年メンデルスゾーンに夢中になりワイマールの自宅で何度となくピアノ演奏をさせる光景を描いた文章があります。最初の出会いは1821年11月、メンデルスゾーン12歳、ゲーテは72歳でした。
出会う前にすでにメンデルスゾーンはゲーテの詩を読んでいたとのこと。その後1822年、1825年、1830年と再訪をしています。

さて、最後にゲーテとメンデルスゾーンの共通の何かを探していたところ詩集「オシアン」にたどりつきました。「オシアン」とはスコットランドの伝説上の王、そして詩人、叙事詩です。違う時代ではあっても同じ作品を読み影響を受け、自分たちの作品に表現していく作り手を改めて尊敬します。
ゲーテやメンデルスゾーンだけでなく、ルソー、ワーグナー、シューベルト他、作家、画家、音楽家に強く影響を受けただけではく、一般の人々にケルト民族を知ってもらう好機にもなりました。

ローラの岸のオシアン◇フランソワ・ジェラール

ローラの岸のオシアン◇フランソワ・ジェラール


もう一つのエッセイ「音楽と絵画の部屋」 Chapter10 シューベルトの手紙よりこちらもご覧下さい

 

本間くみ子 第3回 ピアノリサイタル→ロマン派への誘い
追記) シューマン著「音楽と音楽家」の中にメンデルスゾーンの無言歌集について触れている文章をご紹介します。
夕闇のせまる頃、ピアノの前に座って、何とはなしに夢見心地で指を遊ばせているうちに、知らず知らず小声で旋律を口ずさむといったようなことは、誰しも覚えがあるだろう。 たまたま、その人が、自分で旋律に伴奏をつけられ、ことに彼がちょうどメンデルスゾーンのような人だったとすれば、たちまち美しい無言歌ができる。勿論、まず詩について作曲し、次に言葉を削って発表すれば、もっと楽にできよう。けれどもそれは本当の無言歌ではないし、いわば一種の詐欺である。 しかしそんなことがあったら、その機会に、果たして音楽がはっきりと感情を伝えられるかどうかの試験をしてみるのも面白いから、その削った詩の作者に頼んで、できた歌に新しい言葉をつけてもらうとよかろう。 新しい詩が古い詩と一致したら、それこそ音楽の表現の確実さの証明だ。さて、この歌集をみてみよう。歌はみな日光のように明るい顔をしている。最初の歌は(甘い思い出)印象の純粋さと美しさを備えている。フロレスタンは「こういう歌を歌った人はまだまだ長い生命が期待される。生前はもちろん、死んだ後もこの曲は長く残るだろう」・・・
シューマンの言わんとするところ、大変分かります。まさに文学を音楽に近づけた方の言葉です。 私もこの無言歌集は大好きです。気持ちが沈んだ時にも、最初のひとフレーズを聞いた瞬間にふわりと心を軽く誘ってくれるのです。よろしければその無言歌集の中から第1曲目「甘い思い出」をお聞きください。
メンデルスゾーン◇無言歌集「甘い思い出」 ピアノ 本間くみ子


105話:ロマン派への誘い その3 [クラシック]

 

シューベルト=リスト(編曲)◇歌曲「白鳥の歌」~セレナード

「歌曲の王」として知られているシューベルトですが、この歌集「白鳥の歌」の意味を皆さんはご存知でしょうか。

まず、シューベルト(1797-1828)が病床となった1828年11月12日に友人*ショーパーに宛てた手紙をご紹介します。またこれがシューベルトの書いた最後の手紙となりました。(*シューベルトが17歳で出会い生涯友人であり、シューベルティアーデの場を提供してくれた人達の一人でもある)

「親愛なるショーパー君、僕は病気で、この11日間何も食べたり飲んだりしていない。ただ安楽椅子とベッドの間をよろけながら行き来しているだけだ。何か食べようとしてもすぐに吐いてしまう。そこで申し訳ないのだが、この絶望の状態にあるぼくに、何か読物を貸して助けてはくれないだろうか・・・」

と、こうしている間にもシューベルトは最後の仕事、歌集「冬の旅」第二部の校正をしていたそう。死を目の前にしても、最後まで作品作りをしようとする気力、情熱に私はただただ尊敬の念を抱くばかりです。

 ハンス・ラルヴィン◇シューベルトを迎える友人達(中央が本人)

ハンス・ラルヴィン◇シューベルトを迎える友人達(中央が本人)

シューベルトは本格的に歌曲を書き始めたのは17歳、新しい学校に入学してからの時期です。また同じ年、冒頭でも触れましたが、友人ショーパーと出会い、良くも悪くも沢山の影響を受けていきます。

20歳になると、将来作曲家になるための重要人物との出会いが待っていました。それはヨハン・ミハエル・フォーグル(1768-1840)。彼は歌手で劇場よりもサロンでアリアや歌曲を歌うことで人気を博し、シューベルトの歌曲をずっと歌い続け広めてくれたのです。

  クールベ・ウィザー◇友人フォーグル

クールベ・ウィザー◇友人フォーグル

さて、今日ご紹介する「セレナード」ですが、1827年(30歳)交流があり歌手でもあったアンナ・フレーリヒからの依頼で、彼女の生徒(ゴスマー)の誕生日に合唱曲として、注文を受けていました。実際、この誕生会は思考を凝らしたもので、当日ゴスマーの住む家の庭にそっと三台の馬車で合唱団が入り、ピアノも気づかれないようにゴスマーの部屋の下におかれました。いざセレナードの演奏が始まるとゴスマーが驚いて窓から顔を出し、次の瞬間には大きな喜びを表したという事です。

尚、これにはおちがあり、シューベルトはこの誕生会に招待されていることをすっかり忘れていて、実際にこの曲を聴いたのは翌年。そしてアンナに「この曲がこんなに美しいとは本当に思ってもみなかった」と語ったと言われています。仕事で受けた作曲とはそんなに無頓着なものだったのでしょうか・・不思議な感じさえします。この曲は前奏を聴いただけで心がしみじみとしてきませんか

そのセレナードが含まれている歌集タイトル「白鳥の歌」についてですが、これはシューベルト自身がつけたかどうかは疑問だそう。死後、兄のフェルディナントが最後の3曲のソナタと共に13曲の最後の歌曲として提供し、彼自身の手で「白鳥の歌」と書き記しています。また、そもそもの意味は死ぬ間際に白鳥は歌うと言われ、その時に歌声が最も美しいという言い伝えから、ある人が最後に作った詩や歌曲、生前最後の演奏などをそう言われています。

  フェルメール◇窓辺で手紙を読む

フェルメール◇窓辺で手紙を読む

 

「セレナード」の詩を一部ご紹介します 

                                       詩:レルシュタープ

僕の歌は夜の中を抜け あなたへひっそりと こう訴えかける
静かな森の中へと 降りておいで 恋人よ、僕のもとへ
細い梢が月の光の中で ささやくように ざわめいている
裏切り者の意地悪い盗み聞きを怖がることは無い 優しい人よ
夕べに恋人の窓辺で恋をささやくセレナード(夜想曲)であり、ピアノ伴奏にもギター風の音型が使われています
歌◇Peter Schreier シューベルト◇セレナード
ピアノ◇Horowitz シューベルト=リスト◇セレナード
もう一つのエッセイ「音楽と絵画の部屋」 Chapter10 シューベルトの手紙よりこちらもご覧下さい
本間くみ子 第3回 ピアノリサイタル→ロマン派への誘い


104話:ロマン派への誘い その2 [ピアノ]


 

<ピアノ> シューマン◇歌曲「ミルテの花」より~献呈~君に捧ぐ



もう一つのエッセイ「音楽と絵画の部屋」 シューマン:座右の銘こちらもご覧下さい


シューマン(1810-1856)というと私は「文学と音楽の架け橋」というサブタイトルをつけたくなる作曲家です。確かに同年代であったリストの手記に次のようなことが書かれているのが残っています。

*シューマンは文学を音楽に近づけた。彼は実際にそのことを証明することが出来た最も重要な音楽家である*

リストは音楽家としてシューマンは良きライバルと同時に尊敬していたことでしょう。面白い事にYoutubeでこんな動画を見つけました。映画「愛の調べ」より

シューマンの作曲した歌曲はほとんどが妻クララへの思いを表現しています。そのクララと出会うことになったのは、シューマン18歳で入門したのが著名ピアノ教師ヴィーク氏、そしてクララはそのヴィーク氏の愛娘だったのです。クララは当時才能あるピアニストの金の卵として音楽に留まらず多岐に渡り教育を受けていました。

やがてシューマンは21歳で音楽の道へ進む決意を固め、ヴィーク家に下宿することになります。しかし、その頃になるとクララも各地で注目されるピアニストになり演奏旅行が増え、肝心の父親ヴィークがかかりきりになり、シューマンへの指導が疎かになっていきます。シューマンはフンメル氏に指導の転向考えたり、また再び文学への道へと心が揺れ動きます。そしてこの頃は (簡単に言ってしまうと二重人格) 「二つの自我」に悩みやがて自分自身認め、新しい芸術への戦いを自覚し行動を始める年にもなりました。

20代後半はクララへの気持ちがより一層高まり、同時にヴィークとは益々折り合いが悪くなっていきます。ヴィークがシューマンを気に入らなかった大きな理由にはクララとは比べ物にならないほどの無名のピアニストだったからのようです。シューマンの活動をことごとく父親は妨害しました。そんな苦しい状況の中でシューマンは数々のピアノ作品を残しています。(ピアノの年と呼ばれている)

さて、そんな執拗なまでの父親の嫌がらせ(裁判にまで発展)にも負けずクララと1840年30歳で結婚します。その時期は「歌の年」と呼ばれ、結婚を機に、その年だけでも100曲以上の歌曲ばかりを書き上げました。きっとシューマンが人生において最も幸福で心穏やかな充実した年だったことでしょう。

*クララの日記より~・・・これら全体がどれほどたやすく生まれ、幸せだったことか!たいていはピアノに向かってではなく立ったり、歩いたりして作曲した。今までと違って指先を通じて人々に伝えられるものではなく、もっと直接的でメロディに溢れている*

   エルグレコ◇キリストの苦悩

エル・グレコ(1451-1614)◇受胎告知

この絵を良くご覧下さい。大天使ガブリエルが手にしているユリの花、細い花瓶にさしてあるのがミルテの枝、いずれもマリアの処女性を表しています。

さて、今日ご紹介する「献呈」はその「歌の年」の代表作の一つでしょう。歌曲集「ミルテの花」全体がクララへの激しい思慕の情から生まれています。実際に結婚式の前夜にミルテの花を添えられてクラに作品が捧げられました。

ミルテの花言葉「愛」

グランヴィル◇ミルテ(マートル)1846年

グランヴィル◇ミルテ(マートル)1846年

結婚式にもよく使われ、「祝いの木」とも言われています。

最後に「献呈」~君に捧ぐの詩の一部をご紹介します。

 君は僕の魂 君は僕の心 君は僕の喜び あぁ、そして君は僕の心の痛み
 君は僕の生きる世界 君は僕の漂う天使 あぁ、そして君は我が墓
 その中に僕は永遠に悲哀を捧げいれたのだ



演奏◇ピアノ:ボレットシューマン=リスト◇献呈



 kumikopiano インフォメーション   まだ若干お席に余裕がございます 

 ニューイヤーコンサートのお知らせ 


2012 ニューイヤーコンサート 


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