103話:ロマン派への誘い その1 [クラシック]

皆様、お久しぶりです。
このところ演奏会と練習の日々で更新が中々できませんでした。
それにしても早いものですね。もう今年もまた1年を終えようとしています。
皆様はいかがお過ごしでいらっしゃいますか。

ベートーベン◇ピアノソナタ第8番ハ短調「悲愴」作品13


ベートーベン(1770-1827)と言うとすぐに思い浮かべる作品はこれからの時期にぴったりの交響曲第9番合唱つき「喜びの歌」を筆頭に、ヴァイオリンソナタ「スプリング」「クロイツェル」、小さな曲では「エリーゼのために」などなどそれぞれの人々の心の中に次々と作品が湧き出てきますね。

本日の作品は3大ピアノソナタ「月光」「熱情」と共に知られる「悲愴」のご紹介です。

この作品はベートーベン28歳(1798年)に書かれました。そして、ヴァイオリニスト、クロイツェルと知り合っている年でもあるのです。ベートーベンは22歳でウィーンに拠点を移し、成功の道を辿っているこの時期に病魔が忍び寄っていました。それは音楽家にとって致命的な「難聴」だったのです。

この曲はベートーベンにとって大変思いいれの大きい曲だったに違いありません。タイトル「大ソナタ悲愴(グランドソナタパテティーク)はベートーベン自身が名づけ、数少ない標題の例としても知られています。また、1楽章の「序奏」にもあるように、これまでのピアノ曲と異なり、人間的な感情表現が豊かになり、ロマン派のピアノ書法の原点とされています。

もしこの病に苦しまなかったら、これまでと同様サロン受けする作品を書き続けていたかもしれないだろう、苦悩に追い詰められそれを乗り越えようとしたことが彼を自己発見と斬新な技法を可能した、と考える専門家も多いのです。

ティソ(1836-1902)◇ゲッセマネの園での苦悩(キリストの苦悩)

ティソ(1836-1902)◇ゲッセマネの園での苦悩(キリストの苦悩)


では、ベートーベンがどれほど「難聴」について苦悩していたかを知る手がかりとなる友人に宛てた手紙の一部を書き出してみましょう。

出来ることなら僕は運命を相手に戦い、勝ちたい 僕は何回となく創造主を呪った。 考えても見てくれ、僕の一番大切な部分である聴覚がだいぶ弱まっているのだ。



さて、実際この曲を翌年1799年に発表すると数年間に渡り、賛否両論のセンセーションを巻き起こしました。モシュレス(1794-1870作曲家・ピアニスト)*下記写真*の伝えをご紹介しましょう。

モシュレス


彼が1804年プラハ音楽院の生徒だった時、学校はモーツアルト・クレメンティ・バッハ以外の作品を学ぶことは禁止したそう。特にベートーベンについてはすべての規則に違反してでたらめな音楽を書いていると。モシュレスはこっそりと図書館に通い、「悲愴」を見つけ、写譜し、そのスタイルの新しさに魅了されました。

写譜というと私はバッハを思い出します。10歳の頃、まだ早いから駄目だといわれたパッヘルベルのピアノ曲の譜面をこっそり持ち出し6ヶ月もの間写していたそう。またモーツアルトは譜面を見ることも禁じられていた教会カンタータの演奏について、耳でその演奏を記憶していまったとのこと。いつの世でも後世に名を残す大家は知恵と根気が人並み外れているのですね。凡才の私にはどんな知恵があり、どこまで根気が続くのか。これからも自分自身を楽しむゆとりを忘れず精進していこうと思います。

その他、若きベートーベンのエピソードを知りたい方はChaputer 7 社交界の寵児:ベートーベンこちらのエッセイをご覧下さいね


◇第一楽章:序奏、アレグロ・ディ・モルト・コン・ブリオ(荘厳に、きわめて輝かしく)
◇第二楽章:アダージョ・カンタービレ(きわめて遅く、歌うように)
◇第三楽章:ロンド・アレグロ(ロンド形式、軽快に)


演奏◇ピアノ:ケンプ ソナタ「悲愴」第2楽章





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3'rdアルバム「My Romance」を2011年8月にリリースしました。

My Romance:本間くみ子

言葉の無い3つのロマンス(フォーレ)/アヴェマリア(ピアソラ)/間奏曲作品118-2(ブラームス)/ロマンティックな情景(シベリウス)/甘い思い出・紡ぎ歌(メンデルスゾーン)/あなたが欲しい(サティ)/亡き皇女のためのパバーヌ(ラヴェル)/即興曲作品90-2(シューベルト)/愛の夢(リスト)/フランス組曲第5番より(バッハ)/精霊の踊り(グルック)/幻想即興曲(ショパン)/トロイメライ(シューマン) 計62分 定価¥1500にて発売中。
 


今日の1曲◇バッハ:フランス組曲第5番「アルマンド」 より ピアノ:本間くみ子

録音スタジオ:ソフィアザールサロン
yutubeに現在私自身の演奏を62曲アップしています


102話:素晴らしきかなシューベルティアーデ [クラシック]

シューベルト(1797-1828)ドイツ生まれ、「歌曲の王」と呼ばれていることは有名ですね。外見的には身長は低く、どちらかというと肥満体で、ひどい近眼。金銭的にいつも貧しく、友人たちの家を転々とする生活を送り、そのせいかどうか、何日もお風呂に入らなくても平気で、身なりは汚らしかった...と伝えられています。

そんな風貌のシューベルトですが、実際には彼を応援する友人が大勢いたのでした。彼の陽気で楽観的な性格とこの音楽の才能が皆から愛されていたのでしょう。神学校時代の同級生シュパウン、その友人でシューベルトを客人として自宅に招いたショーバー、詩人のマイアホーファー、歌手のフォーグル、そんな仲間がシューベルトを経済的に助け、作品の初演・出版に力を注ぎました。その彼らが催したシューベルトを囲む集会のことを「シューベルティアーデ」と呼ばれたのです。

 

シューベルティアーデ


シューベルト◇16のドイツ舞曲 作品33


さて、今日ご紹介する「舞曲」についてですが、このワルツのスタイルはシューベルト以前のハイドン、モーツアルト、ベートーベンの時代の頃から舞曲形式の作品は実用的な目的として、彼らも書いていました。それは彼らのおかれている社会的立場からそのように義務付けられる事すらありました。やがてシューベルトの時代なり、音楽は貴族階級と離れ中産階級へと流れ、新しい友人達の集まりに即興的な楽しみ方としても用いられるようになったのです。

今日の絵画のように、シューベルトはここで自らピアノを弾き、あるいは歌い(かなりの美声であったらしい)、舞踏会となると新作や即興の舞曲を演奏しては皆を喜ばせる人気者でした。実際、シューベルトはかなりの数の舞曲、実際に踊るために作り、集中的に作曲されたのは、このシューベルティアーデが頻繁に開かれた、1823年から24年にかけてです。


シューベルトは舞曲を即興し、気に入ったものを繰り返し弾き、書き留めて出版したそうです。そうして数多くの舞曲が生前のうちに世に出たのですが、この作品もまた、早くも翌年にヴィーンのカッピ社によって取りまとめられました。

またシューベルトは四六時中五線紙と向き合う生活で、その創作力が絶えることはありませんでした。レストランのメニューの裏に友人が五線を引いて、そこに曲を書きつづっていった、などというエピソードも残っています。

演奏◇ピアノ:ブレンデル 16のドイツ舞曲



16の舞曲とは言っても、1つ1つが大変短く(平均16小節)次々と曲調(テンポと調性)が変わります。それはまるでシューベルト自身が自分を囲んでいる友人達のキャラクターを即興で表現しているかのような、さもなければ踊る舞台が次々と変わるラウンドステージのような、そんなワクワクした感じが伝わります。演奏するのも聞くのもとても楽しい作品ではないでしょうか。



 

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3'rdアルバム「My Romance」を2011年8月にリリースしました。

My Romance:本間くみ子

言葉の無い3つのロマンス(フォーレ)/アヴェマリア(ピアソラ)/間奏曲作品118-2(ブラームス)/ロマンティックな情景(シベリウス)/甘い思い出・紡ぎ歌(メンデルスゾーン)/あなたが欲しい(サティ)/亡き皇女のためのパバーヌ(ラヴェル)/即興曲作品90-2(シューベルト)/愛の夢(リスト)/フランス組曲第5番より(バッハ)/精霊の踊り(グルック)/幻想即興曲(ショパン)/トロイメライ(シューマン) 計62分 定価¥1500にて発売中。
 
今日の1曲◇ショパン:幻想即興曲 より ピアノ:本間くみ子
録音スタジオ:ソフィアザールサロン yutubeに現在私自身の演奏を62曲アップしています 10月2日(日)午後2時半 ベートーベンチクルス室内楽演奏会チェロソナタ1番・3番/シューマン:幻想小曲集(チェロとピアノ)/シューマン:子供の情景より(ピアノソロ)他こちらもどうぞ宜しくお願い致します。

101話:「ドイツ・リート誕生日」となった作品 [クラシック]

98話、99話とベートーベンの作品が続きました。癇癪持ちと言われたベートーベン、交流のあった音楽家ハイドンとは喧嘩別れをしてしまったという話が残っていますが、弟子であったツェルニーをはじめ、シューベルトもほんの少しですがベートーベンとの関わりがあったようです。

シューベルト(1798-1828 ウィーン生)はベートーベンを大変尊敬していました。ベートーベンが27歳の時にシューベルトは生まれたのですから30歳近くもの年の差があります。同じウィーンで過ごしていたのだから互いにすれ違うことくらいあったのではないでしょうか。もしかしたら共通の知人がいたのかもしれません。
しかし、1822年にシューベルトはピアノ連弾曲作品10をベートーベンへの献辞を添えて出版した事を機にその作品を持ってベートーベンを訪ねましたが留守で会えなかったと伝えられています。

一方、1826年10月ベートーベンは病床についた頃、シューベルトの歌曲を知り彼は「この作曲家は本当の神聖な焔を持っている」と周囲の人に褒めたとのこと。しかしシューベルトは知る由はなかったのです。やがて死の数日前に見舞い客の中にシューベルトの姿もありました。
その次の年、31歳という若さでシューベルトも亡くなるのですが周囲の人たちには「自分が死んだときはベートーベンの近くに埋葬して欲しい」と頼んだそう。現在ウィーン中央墓地にはべートーベンとシューベルトの二つの墓が隣り合っています。


シューベルト◇糸を紡ぐグレートヒェン


シューベルト17歳の時、「1814年9月19日」西洋音楽の歴史のなかでも、とくに重要な日付けのひとつとされています。それはこのゲーテの詩による最初のリート「糸を紡ぐグレートヒェン」が生み出されているのです。

  
シェーファー◆ファウストとグレートヒェン

シェーファー◆ファウストとグレートヒェン


この歌曲はゲーテの長編戯曲「ファウスト」からの詩によるものです。また、ゲーテ14歳の時に思いを寄せた少女、グレートヒェンが根底にあり、戯曲「ファウスト」では1部にてファウストとグレートヒェンを巡る悲劇の中での彼女の思い、苦しみを歌っています。マルガレーテ(愛称グレートヒェン)は糸車で糸を紡ぎながら、恋人であるファウストの顔や仕草を思い出し、心の高ぶりを歌います。口づけを思い起こす時、陶酔して思わず踏み板を止めてしまう、われに返り、再び作業を続けようとする、しかし心ここにあらず、そんな心境を的確に表現しています。

これまでバロック期からの音楽の主要な役割はその心情など、一つの曲の中ではパターン化された静的な感情のみ、状況や心情が事細かに描写されるだけでした。しかしシューベルトは、ゲーテの意をうけ、むしろ「心情の変化」を描いたのです。例えばしだいに興奮してまたわれに返るという感情の変化です。この表現はそれまでの音楽、少なくとも歌曲の世界ではほとんど描かれたことがなかったのです。

アリ・シェフェール◇糸を紡ぐマルガレータ(愛称グレートヒェン)

アリ・シェフェール◇糸を紡ぐマルガレータ(愛称グレートヒェン)


 

~~詩の一部をご紹介します~~ わたしの安らぎは去り、私の心は重く沈んでいます。 私は二度と、もう二度と心の安らぎを得ることはありません。 あの方がいない所なんて、私には墓場も同然です。 世の中の全てが私には苛立たしいのです。 私のできの悪い頭はおかしくなってしまい、私のみじめな心は粉々になってしまいました。


演奏◇ソプラノ ルチアポップ 糸を紡ぐグレートヒェン






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今日の1曲◇シューベルト:即興曲作品90-2 より ピアノ:本間くみ子 録音スタジオ:ソフィアザールサロン yutubeに現在私自身の演奏を62曲アップしています 音楽と絵画の部屋 新エッセイです Chapter 6. テーマ「雨」

100話:難聴の苦悩、心の焦燥 [クラシック]

Beethoven◇Thoughtful

Beethoven◇Thoughtful


「僕は何回となく創造主を呪った。考えてもみてくれ、僕の一番大切な部分である聴覚がだいぶ弱まっているのだ」

ベートーベンが友人に宛てた手紙の一節です。

「6年このかた不治の病に侵され、つまらぬ医師たちによりいっそう病を重くされている」

これは1802年ごろ書かれたと推定される遺書のなかにありました。



ベートーヴェン◇ピアノソナタ第8番「悲愴」



ベートーベンの代表的なソナタに「月光」「熱情」「テンペスト」「ワルトシュタイン」「告別」などがありますが、この「悲愴」もまさにそれであり、ピアノ3大ソナタとしても挙げられています。

このソナタは1798年から翌年にかけて作られました。まさにベートーベンの難聴が始まった時期でもあります。またこの曲の「グランド・ソナタ・パテティーク」という標題は彼自身の命名する数少ない作品でもありました。そしてこれが、彼に苦難を与えた「運命」への作曲家としての答えでもあるのです。

友人ヴェーゲラーへの手紙の中の一節~「できることなら、僕は運命を相手に戦い、勝ちたい」



エルグレコ◇キリストの苦悩


エルグレコ◇キリストの苦悩

エルグレコ(1541-1614)はスペイン出身、イタリア(ヴェネツィア・ローマ等)やスペインで活躍したマニエリスム最後にして最大の画家です。


さて、この作品は発表と同時に爆発的な人気を呼び、アカデミックな作品を重視するヴィーンの教師たちは、この型破りな作品を見ることを禁じたほどだったそうです。当時生徒だったモシュレスは密かに楽譜を手に入れ写譜したことが伝えられているとのこと。

第1楽章、冒頭の叩きつけるような感情の爆発のフォルテ・ピアノの和音で始まる主題同機の3回にわたる繰り返しは鬱積した情熱の吐露であり、つづく苦悩とそれからの脱出への願望を願うかのような楽想の進行は、まことに絶妙であり荘厳である。 (園田高弘 著)


この名曲は不幸にして重い病のおかげで生まれた作品ですが、もし彼が難聴に見舞わなければその後も求められるままに、人気作曲家としてサロン受けのする作品を書き続けていたかもしれません。苦難に追い詰められ乗り越えようとしたことが、彼に新しい自己発見と斬新な技法を可能にさせたのでしょう。こうして今日の作品の背景を改めて考えてみると今現在、私達のおかれているこの状況に通じるものがあるのではないでしょうか。

参考書籍:ベートーベンの生涯(青木 やよひ著)



演奏◇ピアノKempff ケンプ 悲愴 第1楽章  kumikopiano インフォメーション 
今日の1曲◇ベートーベン:ソナタ「月光」2楽章 より ピアノ:本間くみ子 録音スタジオ:ソフィアザールサロン yutubeに現在私自身の演奏を60曲アップしています 音楽と絵画の部屋 新エッセイです Chapter 5. ラフマニノフ:神秘とロマンス

99話:タイトル「ほとんど協奏曲のように、相競って演奏されるヴァイオリン序奏つきのピアノソナタ」 [クラシック]

随分と長いタイトルですね。これは最初、ベートーヴェン自身のつけたタイトルだったそうです。

ベートーヴェン◇ヴァイオリンソナタ「クロイツェル」


ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)1770-1827 ドイツの作曲家、そして古典派音楽の集大成、かつロマン派音楽の先駆けとされています。
ベートーベンは粗野で気難しいというイメージがあります。その人格形成には10代の頃父親からのしうちで次第にゆがんでいってしまったのかもしれません。

幼少の頃、やはりモーツアルト同様ベートーヴェンの父親も大変熱心に音楽教育と小さなベートーヴェンを売り込みにいくのですが、次第に父親が思った以上に息子に才能があり、13歳にしてすでに父親を超えてしまいました。父親は宮廷楽長という高い地位にありながら平凡な才能である自分は息子ベートーベンに嫉妬を抱き、やがてお酒に溺れていったようです。
こうした複雑な親子関係、母親への思いやり、父親が生活費をすべてお酒につぎこむため幼い兄弟を養う努力、そんなベートーベンは私たちの知らない苦労、そして実はとても思いやりに満ち、責任感溢れる人物でもあったようです。

13歳のベートーヴェン


さて、ベートーベンがモーツアルトと出会った事について一つご紹介します。ベートーヴェンが17歳の頃、2週間ほどウィーン旅行をしていました。その旅の目的の一つに小さい頃からモーツアルトに憧れ、彼に教えを乞うためだったのです。モーツアルトの家に人に連れられてやって来たベートーヴェンはリクエストされた曲を弾きました。モーツアルトは前もって用意していた演奏と判断し、やや冷たい口調でほめました。そこでベートーヴェンはモーツアルトに即興演奏のテーマを自分に与えてくれるよう頼みます。尊敬する巨匠の前とあってベートーヴェンは熱を込めて演奏しました。するとどういうわけかモーツアルトは演奏が終わらないうちに隣室に消えてしまったのです。

ベートーベンはそのモーツアルトの行動に自分の演奏に興味を示してもらえなかったと思いがっかりして帰国します。しかし後に分かった事ですが、そのモーツアルトの行動は実は違っていて、彼の注目と関心が次第に高まり、ついに興奮して隣室にいた友人に伝えに行ったのでした。

「彼(ベートーヴェン)に注目したまえ。いつの日か彼は、語るに足るものを世界に与えるだろう」

今日お届けするヴァイオリンソナタ第9番イ長調作品47は1803年、33歳の頃の作品です。ヴァイオリニストのルドルフ・クロイツェルに捧げられたため、サブタイトルに「クロイツェル」として呼ばれています。

この曲もまたドラマがあったようです。実際、ベートーベンはクロイツェルに献呈するために書いたものではなく、黒人ヴァイオリニスト、ブリッジタワーに献呈したのです。同じ年にウィーンで彼と共演したベートーヴェンは感銘を受けこの曲を捧げました。しかし「狂気の黒人のためのソナタ」と親しみから茶化すような献辞がついていました。またある時、ブリッジタワーがある女性を侮辱したところ、その女性はベートーベンの友人であった事もあり次第に二人の関係は終わってしまったのです。そして改めて当時のヴィルトゥオーゾだったクロイツェルに改めて献呈したと言われています。

この作品に触発されたロシアの文豪「トルストイ」は小説「クロイツェル・ソナタ」を書いています。嫉妬心にかれれ妻を殺してしまった夫の悲劇が描かれています。
  
ニコラス・ゲー◇トルストイの肖像

ニコラス・ゲー◇トルストイの肖像


画家ニコライ・ゲー(1831-1894)は熱烈なトルストイ信望者で、当時56歳のトルストイに頼みこみ、モスクワの自宅で仕事に没頭している姿を描くことに成功したとのことです。


また作曲家「ヤナーチェク」はその小説に刺激を受けて、弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ」残しました。

参考書籍:ベートーベンの生涯(青木 やよひ著)



演奏:Argerich & Kremer http://www.youtube.com/watch?v=zsWdfh95urc




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今日の1曲◇ベートーベン:ソナタ「月光」3楽章 より ピアノ:本間くみ子 録音スタジオ:ソフィアザールサロン yutubeに現在私自身の演奏を60曲アップしています 音楽と絵画の部屋 新エッセイです Chapter 5. ラフマニノフ:神秘とロマンス


98話:手抜き、減給の名曲 [クラシック]


クラシックファンになら大方予想のつく今日の作品ですね。先日、私はオーボエ奏者とちょうど本番にてこの曲で共演させて頂きました。やっぱり木管楽器から流れ出る暖かい響き、モーツアルトの「減り張り」と「ギャラント感」は私の心を瞬時に快活に、そして豊かにさせてくれます。

モーツアルト◇オーボエ協奏曲とフルート協奏曲

モーツアルトは(1756-1781)オーストリア、ザルツブルグ出身。フルネームはヴォルフガング・テオーフィルス・モーツアルトなのですが、実に輝かしい名前であるという事で少しご紹介します。

ヴォルフガング=ヨハネ・クリュソストムスはキリスト教の説教者、東方教会の総主教にして4大教会博士の一人である。そのヨハネの祝日に当たる1月27日に生を享けた。またヴォルフガングじたいも聖人の名。また、母マリーア・アンナの生地ザンクト・ギルゲンの湖ヴォルフガングゼーにもなぞらえているが、「狼とともに行く者」という意味でゲルマンの伝説に基づき、勇者の意を持つ
テオーフィルス=ラテン語系ではアマデウス、ドイツ語ではゴットリープ、いずれも「神を愛する者」または「神の愛でし子」の意味を持つ。

名は体を表すとはまさにモーツアルトのことですね。3才で楽才の芽生えを目の当たりにした父、レオポルトは4才でレッスンを始め、5才で小曲の創作まで試みるのでした。17歳にして、もう他の年長作曲家たちと互角、いえそれ以上のもので圧倒したのです。


神童8歳、ナンネル13歳、父レオポルト45歳


神童8歳、ナンネル13歳、父レオポルト45歳

1762年(6才)の時父親に連れられてロンドンにやってきます。するとバッハの11人目の子供ヨハン・クリスティアン・バッハ(27歳)と出会い演奏しあいながら年齢差を超え仲良くなるのです。クリスティアンはバッハ家の中で唯一オペラ作曲家であったようです。モーツアルトはクリスティアンから、華やかで魅力的な表現や響きを学び取りました。その後モーツアルトのピアノソナタのギャラントな作曲様式(バロックの複雑から古典派の明晰へむかう中に登場した音楽)はクリスティアンのそれに影響を受けているとのこと

ヴァトー1684~1721◇恋の音階

ヴァトー1684~1721◇恋の音階

ジャン・アントワーヌ・ヴァトゥは18世紀フランス画壇において最も重要な画家であり、ロココ様式(豪壮・華麗なバロックに続き優美・繊細なロココとして一時代続いた美術文化)の形成に大きな役割を果たした。

モーツアルトの生涯はわずか35年で閉じてしまい、今日の私たちからすれば短すぎると誰しもが思うでしょう。また、およそ800曲にも及ぶ作品の創作をわずか5才から始め、30年という時間の経過の中で書き上げていく速さとはいったいどんなものなのでしょうか。いくつかのシュミレーションも試みられたとの事。どれもが写譜者がどんなに早くモーツアルトの曲を書き写しても、彼の35年という物理的、計算的な時間の中には収まらないどころかはるかに超えてしまうとの事です。とうてい間に合わないという事なのです。しかも筆跡が流麗そのものだそう。

さて、今日ご紹介するこの作品は、ベルガモ出身でザルツブルクの宮廷のオーボエ奏者ジュゼッペ・フェルレンディスのために1777年4月1日から9月23日の間に作曲されました。実はエピソードとはこの後のことになるのですが、1778年ごろ、アマチュアフルート奏者、ドジャンからフルートの作品をいくつか頼まれるのです。モーツアルトは当時まだ楽器として音程が安定していなかったフルートをあまり好きではなかったのですが、お金に困っていたので引き受けてしまいます。しかし中々作曲が間に合わず、いくつかの作品のうちこの曲をオーボエ協奏曲のキーを一音あげてそのまま渡してしまったという訳です。それを知ったドジャンは初めに提示した報酬の半分しか払わなかったとの事です。

参考書籍 :「モーツアルトの廻廊」 海老沢敏著 春秋社
「モーツアルト」 スタンダール著 東京創元社

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今日の1曲◇モーツアルト:トルコマーチ ピアノ:本間くみ子 録音スタジオ:ソフィアザールサロン yutubeに現在私自身の演奏を60曲アップしています 冒頭でご紹介したオーボエ奏者のプログはこちら堀子孝英 演奏はこちら◇オーボエ:堀子孝英Shadow of your smile 音楽と絵画の部屋 新エッセイです Chapter 4. ドビュッシー、出世作となった管弦楽曲


97話:モーツアルト晩年の最高傑作 [クラシック]


前回のマタイ受難曲に関連したお話で、今日はモーツアルトの逸話を一つご紹介します。モーツアルトは(1756-1791)オーストリア、ザルツブルグ出身、大バッハの息子クリスチィアン・バッハに小さい頃出会ったエピソードもあるのですが、今日は別のお話しです。

13歳の時、父親とローマで復活祭前週を過ごします。聖水曜日夕刻ミスティナ礼拝堂にて「ミゼーレ」を聴きます。絵画、ミケランジェロの「最後の審判」に光が当たり、荘厳な響きで始まりました。当時、法王つきの楽団員にも「ミゼーレ」(グレゴリオ・アレグリ作曲)の写譜は禁じていました。モーツアルトは何としてもその曲を知りたく「それならば暗記しよう」と思い立つのです。宿に帰り記憶をたどり書き写します。金曜日にまた同じ演奏会にもぐりこみ、自分の写し譜の訂正箇所を見つけたということです。

モーツアルト◇オペラ「魔笛」より 


モーツアルト晩年の最高傑作「魔笛」、1791年、最後に完成させたオペラです。病気が進行し、制作中に何度も失神しながら書き続け、モーツアルト自身もオペラの中では特に心こよなく愛する作品でした。公演中は容態が悪化し、最初の9.10回ほどしか指揮をふれなかったとの事。いよいよ衰弱状態になると劇場へ脚を運ぶことも出来なくなり、ベットの脇に懐中時計を置き、夢の中でオーケストラを追っているようだったそうです。

「さあ、第一幕が終わった」  「いま、あのアリアを歌っている」

シャガール◇魔笛

シャガール◇魔笛


「魔笛」の台本は興行主・俳優・歌手であるエマヌエル・シカネーダーが自分の一座のために書きました。シカネーダーは当時ヨーロッパ各地を巡業していたたび一座のオーナーで、モーツアルトとはザルツブルグ時代の知り合い、またお互いにフリーメイソンの会員でもありました。シカネーダーは当時仕事がなく生活に困っていたモーツアルトに大作を依頼したのがそもそも傑作を生み出す始まりです。

フリーメイソンの集会◇最前列右端がモーツアルトらしい・・

フリーメイソンの集会◇最前列右端がモーツアルトらしい・・


魔笛の成功の大きな要素にはおそらくコンスタンツェへの想いが自分の作品のために必要な情熱的なアリアのモチーフとして見出されたことだと言われています。
ウィーンで初演された時壮大な人気を博し、その年だけでも上演20回を越えたと言われています。

ストーリー:魔法の笛に導かれた王子タミーノが数々の試練を乗り越え夜の女王の娘パミーナを結ばれるというロマンスと、夜の世界を支配する女王が昼の世界を支配するザラストロに倒されるという話の二重構造です。

パパゲーノの軽快なアリア「おいらは鳥刺しパパゲーノ」、夜の女王が雷鳴と共に登場し歌う超絶技巧のアリア「恐れるな若者よ」「復習の心は地獄のように」などはこのオペラの最高の聴きどころともいえるのではないでしょうか。

モーツアルトが愛した音楽家:ボッケリーニ・ヘンデル

シャガール◇パパゲーノ

シャガール◇パパゲーノ



参考書籍:「モーツアルトの廻廊」 海老沢敏著 春秋社
       「モーツアルト」 スタンダール著 東京創元社



パパゲーノ&パパゲーナの二重奏 Pa pa pa pa Cecilia Bartoli & Bryn Terfel


パ・パ・パ・パ・パ・パ・パ、パパゲーナ
パ・パ・パ・パ・パ・パ・パ、パパゲーノ

パ・パ・パ・パ・パ・パ、パパゲーナ!(パパゲーノ!)

きみってすっかりボクのもの?
あたしすっかりキミのもの
ぼくのおヨメになるのかい!?
あたしの心の鳩になれ!

なんてうれしいことだろか。 神さまたちのご配慮で、愛する二人が授かれば。かわいいちっちゃな赤ちゃんを

まずは、ちっちゃなパパゲーノ。
おつぎ、ちっちゃなパパゲーナ。
そのあとまたも、パパゲーノ。
つぎもまたまた、パパゲーナ。

想いがはちきれ、あふれそう。いっぱい、いっぱい、いっぱいの パパパ・パパパパ、パパゲーノ、パパパ・パパパパ、パパゲーナ、 愉快なぼくらに産まれれば。
ちっちゃな子どもに取り巻かれ、 おなじ喜び分かち合い、おなじ姿にほほえんで。幸せなんて これよりも、大きなものがあるだろか?



[るんるん] kumikopiano インフォメーション [るんるん]

今日の1曲◇モーツアルト:幻想曲二短調 ピアノ:本間くみ子 録音スタジオ:ソフィアザールサロン yutubeに現在私自身の演奏を56曲アップしています 音楽と絵画の部屋 新エッセイです Chapter 2. ドヴォルザーク「自問の時期」


96話:奇跡的な復活上演 [クラシック]


早いものでもう3月を迎えました。やがて春分の日も訪れます。この時期ヨーロッパではイースターというお祭りがあるのもご存知の事でしょう。十字架にかけられたキリストが亡くなり、3日目に復活したとされる最も重要、記念すべき日。春分の日の後、最初の満月の次の日曜日に祝われている復活祭(イースター)にちなんだ作品を今日はご紹介します。

この曲を作るにあたり、当時復活祭前40日は「受難と復活に向けての準備期間」でありすべての歌舞音曲が禁止されていました。多忙なバッハはおそらくこの期間を利用してこの大規模な受難曲や復活祭のためのカンタータを準備する事ができたのであろう、という事です。

バッハ◇マタイ受難曲より 52.「アリア:わが頬の涙

まずこれほどの大曲、大作を取り上げるにはこの小さなページではあまりにもお粗末なのではないか・・とも考えたのですが今後もシリーズとして再び取り上げていきたいと思います。

  グイド・レーニ(1575-1642 伊)◇聖マタイと天使

  

グイド・レーニ(1575-1642 伊)◇聖マタイと天使

バッハはドイツ生まれ、1685年~1750年の生涯、当時としては比較的長生きをした音楽家です。また大きく3つの活動時期に分けられます。

ワイマール時代 1708年~1717年 23才~32才 ケーテン時代  1717年~1723年 32才~38才 ライプツィヒ時代 1723年~1750年 38才~65才

そしてこのマタイ受難曲はライプツィヒ時代を代表する作品であると共に、バッハ全作品中の最高峰に位置づけられる作品でもあるのです。しかしながら残念な事に1727年ライプツィヒの聖トーマス教会で初演された時はそれほどの評価を受けませんでした。以後改定を繰り返し1736年に完成したといわれています。

ところが今日私たちがこの大作を知る事が出来た裏には、そのおよそ100年後1829年に「奇跡的な復活上演」があったからなのです。それはロマン派作曲家、メンデルスゾーンの貢献、偉業によって歴史的な上演がなされた事により、バッハの再評価につながったからなのです。

  ゴッホ(1853-1890 和蘭)◇ピエタ(哀れみ、慈悲)

  

ゴッホ(1853-1890 和蘭)◇ピエタ(哀れみ、慈悲)



<作品について>

新約聖書「マタイによる福音書」の26,27章のキリストの受難をテーマにしたもの。多くの独唱、合唱、オーケストラを伴う大規模な音楽作品です。演奏時間はカット無しで約3時間、最近のピリオド奏法では2時間30分という長編です。

第一部 : イエスの捕縛まで

導入の合唱 / 十字架の士の予告 / 祭司長たちの合議 / 香油を注ぐベタニアの女 ユダの裏切り / 晩餐 / オリーブ山にて / ゲッセネマの苦しみ / 捕縛

第二部 : イエスの捕縛、裁判、磔刑、埋葬と封印まで

人気なき園に花婿を探すシオンの娘とエルサレムの娘たちの同情 / 大祭司の審問 / ペテロの否認 / ユダの後悔と末路 / 判決 / 鞭打ち / 十字架の道 / 十字架上のイエス / イエスの死 / 降下と埋葬 / 哀悼 


それぞれのタイトルには合唱と独唱があります。合唱=コラール=群集=公的に対して、独唱=アリア=イエス・ペテロ・ユダ・ピラト・大祭司等の聖書引用部分にもとづいた台詞、そしてバッハ自身の感情、意思、思考表現の要素があります。

 ドラクロワ(1798-1863 仏)◇埋葬

  

ドラクロワ(1798-1863 仏)◇埋葬

 

今日お届けする曲は、第2部「鞭打ち」から52番:アリア「我が頬の涙」です。

たとえ私の頬に涙が流れなくても、おお、私の心を受け取って下さい。しかし主の傷が慈しみ深くも血を流すとき、私の心をこの血で満たし、捧げ物の皿とならせて下さい。 52番:アリア「我が頬の涙」




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今日の1曲◇バッハ:主よ、人の望みの喜びを

youtubeに現在私自身の演奏を56曲アップしています

[CD]ピアノ:本間くみ子

録音スタジオ:ソフィアザールサロン

音楽と絵画の部屋 こちらもどうぞ Chapter 1. パッヘルベルの唯一の作品




95話:蝋燭もなく月光のもとで [クラシック]


ヘンデルの作品に続き今日は同年に活躍したバッハの作品からのご紹介です。


バッハ◇カンタータ第196番「主は我らを心にとめたもう」


ドイツの人たちの暮らしの中で秋になると近隣の大小の教会でバッハのカンタータの演奏が行われているそうです。どこの教会で何番のカンタータが上演されるかが分かるように、特別なパンフレットが発行され、なおかつ無料で聴くことができるとの事。まさにバッハのカンタータはドイツ人の生活の一部なのですね。

バッハはドイツ生まれ、1685年~1750年の生涯、当時としては比較的長生きをした音楽家です。今日はバッハの小さい頃、青年時代の逸話を中心にご紹介したいと思います。


小さい頃のバッハは合唱隊に入っていた事は確からしいとの事。当時の合唱隊は二つに区分され、一つはルター派のラテン語の聖歌。そしてもう一つはドイツ語のコラールを単旋律で歌ったもので、より若く、未熟な少年たちによる<クレンデ>とより音楽的な者たちによって構成された<ポリフォニーコルス・ジンフォニアクス>と呼ばれてものでモテットやカンタータを主に歌っていました。
バッハが作曲している宗教曲のふるさとはその作品群(ルネサンス期の巨匠=ヴァルター / ヨハン・クリストフ・バッハ / ヨハン・クリストフ・バッハ←最初の妻マリア・バルバラの祖父)にあるようです。


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バロック絵画◇カンタータ


バッハは10才になるかならないかで両親を失ってしまいます。そこで兄クリストフバッハ(オールドルフのオルガニスト)の指導の下にクラヴィーア(今でいうチェンバロやピアノのような鍵盤楽器)演奏の基礎を作りました。ただバッハの学ぶ意欲は計りしれず、兄が自発的に学ぶように与えた教材はすべて短期間で習得してしまいます。そして兄の持っていた別のクラヴィーア曲集(最も有名な巨匠=フローベルガー、ケルル、バッヘルベル 等)を見せて欲しいと懇願しても叶いませんでした。

そんなある日、バッハは兄がしまってあるそれらが格子戸だけで仕切られていた戸棚の中に有ることを知っていた事、そしてまだ手が小さく伸ばすたらとれるような場所だった事で、みんなが寝静まるとこっそりをそれを持ち出しました。当時は蝋燭の火はとても貴重なものでしたから明かりとりは許されず、月光をたよりに何と6ヶ月間写譜を続けたのです。でも結局最終的には兄に見つかり取り上げられてしまったようです。

皆さんの子供の記憶の中にもそれに似たような思いではないでしょうか。本当に欲しいもの、手に入れたいもののための努力、知恵は時として、自分自身気がつかなかった力となるものではないでしょうか。今日のように物、情報の溢れる社会では発想も貧しく想像力を働かせる力も育たないと改めて考えさせられませんか。

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さて、もう一つのお話です。バッハも18歳になるとその才能が認められザクセン=ワイマール公爵の宮廷オルガニストとして、アルンシュタットの新教会のオルガニストのポストに就くことになりました。そうして20歳になったある日、ガイヤースバッハ(23歳で5年留年、未だ生徒の身分)から喧嘩をしかけられます。それはバッハが或る時、「へっぽこファゴット吹き」と彼をなじったことが原因でガイヤースはそれを根に持ち待ち伏せ、バッハが腰に下げていた剣を抜いたか抜かなかったか、そんな喧嘩騒ぎになったのです。長老会では「喧嘩両成敗」と事なきを得ますが、その裏にはややひと波乱もあったとか。それは教区長がバッハに喧嘩については監督不行き届きを指摘、そして「ところでおまえはコラール伴奏はするけれど、多声音楽の伴奏は何故しないのか」と。それに対してバッハは「もし音楽監督がいてくれたらやらないでもない」との返答。それ以来教区長はその事に触れなかったとの事。

実は教会の建築上、3階構造ではオルガンは最上階、聖歌隊の入る余地がなく2階で歌うために込入った多声音楽の場合はかなりすぐれた音楽監督(指揮)が必要。その現状はお互いが全く見えず響きだけを頼っての演奏をしていたのです。

天才・秀才は生意気な言動で(当人はそう思っていないでしょう)教師、上司に煙たがられる事はいつの世でもあることですね。そんなクラスメイト、職場仲間が時々居るのではないかしら。。

参考書籍「バッハの風景」 樋口隆一 小学館

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グイド・レーニ(1575-1642)◇受胎告知


さて、今日ご紹介します作品をはじめ、初期のカンタータはどれもとても優れているといわれています。196番は結婚式のためのカンタータとして知られていて、マリアバルバラ(最初の妻)の叔母の結婚式で演奏しました。

歌詞のサイトこちらをご覧下さい

カンタータ:196番主は我らを心にとめたもう





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今日の1曲◇バッハ◇教会カンタータ147番:主よ、人の望みの喜びを

ピアノ:本間くみ子

現在youtubeに演奏を56曲アップしています

録音スタジオ:ソフィアザールサロン

演奏会・アルバムについてのお問い合わせこちら

 

 


94話:式典音楽 その2 [クラシック]


ヘンデル◇王宮の花火の音楽

この曲は1748年に作曲されましたが、言うまでもない事ですが、もう一つの作品「水上の音楽」と並んで祝典音楽としてヘンデルの著名な管弦楽作品となっていますね。

さて、ヘンデルはイギリスに帰化した直後1727年に正式に王室礼拝堂付作曲家、また宮廷作曲家に任命されました。毎年ロンドンでは公園や河川敷で花火大会が開催されました。また、何かお祝い事があるたびに、そのために祝典音楽が書かれ演奏されることもよくあることだったのです。

山下清 諏訪湖の花火.jpg

山下清(1922-1971 日本画家・貼絵)◇諏訪湖の花火大会

花火のルーツはもともとは中国が発祥の地で14世紀ごろイタリアのフィレンツェで広まったとの事。日本に渡ったのは丁度江戸時代だったのですね。

今日の作品に関する出来事として、1740年から1748年まで、ヨーロッパでは<オーストリア継承戦争>という、複数の国を巻き込んだ戦争がありました。イギリスではこの戦争が終わった翌年の1749年に戦争終結を祝う多くの祝賀行事が催され、そのうちの一つに花火大会として4月27日にロンドンのグリーン・パークでこの「王宮の花火の音楽」が初演されました。

オーストリア継承戦争=神聖ローマ皇帝カール6世は子宝に恵まれず、継承者に悩んでおり、そこに生まれた娘マリア・テレジア(アントワネットの母となる)にオーストリアのハプスブルク家を継がせるため、女子の相続を認める詔書を欧州主要国に認めさせ、また帝位に女性も即位できるよう要求していました。しかし、フランス宮廷のルイ15世はハプスグルク家の弱体化の好機と攻撃を仕掛け、それが発展してこの戦争になった経緯があります。

マリア・テレジア(アントワネットの母).jpg

アンドレアス・メラー (1717-1780 ドイツ) 11歳のマリア・テレジア

この作品の編成は管楽器のみからなる大がかりなもので、特に野外で浪々と響くように苦心されました。オーボエ24本、ファゴット12本、トランペット9本、ティンパニ3台。そして初演の際にはされに増加されて100本の管楽器を鳴らしたそうです。

この「王宮の花火の音楽」は実際には花火が打ち上げられる前に奏される「序曲」から始まり、その合間に奏された複数の小さなダンス調の小品「ブーレ」「平和」「歓喜」「メヌエット1」「メヌエット2」から構成されています。

管楽器構成というと私たちはスクールバンド・・そう、ブラスバンドをすぐイメージします。特にマーチングバンドはパフォーマンスとしてフォーメーション等、華やかですが元々は戦争の士気を高めるための軍楽隊がルーツなのです。音楽も戦争の道具だったと思うと大変悲しいことです。また当時、音楽は皇帝、王様に気に入られるために宮廷用BGM、画家は肖像画を沢山残しました。本当に自分の表現したい作品だけ残していくのが実生活をしていくのに難しい、これは昔も今も同じですね。

2「ブーレ」◇ターフェルムジーク・バロックオーケストラ






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今日の1曲:ヘンデル◇アラホンパイプ ピアノトリオ(ライブ録音より

 ピアノ◆本間くみ子

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